北條カズマレの庵

自分のネットでの活動の拠点の一つです。自作の動画・自作の創作論などの解説を載せていきます。

異化効果とは何か

異化効果とは何か
日常からいかに乖離できるか
の文学的跳躍としようか
「いかに批判的に日常を見れるか」
の契機となるべき文学的表現
 
最も安易な異化的見方
→演劇を、舞台役者の演技を批評しながら見る
 
文学的作品とは批評によって完成される
表現形式である
決してそれに対するメタな言説なしには
成立しえない。
 
異化効果を含む作品は批評性を
メタな批評以前に既に内包している?
 
喧騒と、やみくもな怒りの中にある我が若き教え子たちよ
 
『肝っ玉おっかあとその子供たち』
友人など作るべきではない。裏切られる可能性も生じるのだから。
 
ガルシアマルケス
 
週末に禿鷹どもが大統領府のバルコニーに押しかけて、窓という窓の金網をくちばしで食いやぶり、内部に淀んでいた空気を翼でひっ搔き回したおかげで、全市民は月曜日の朝、図体の大きな死びとと朽ち果てた栄耀の腐臭を運ぶ、生暖かい、穏やかな風によって、何百年にもわたる惰眠から目覚めた
 
 
見れば、けっこう、人通りもあるのだが、あまりにも焦点のはるかなこの風景の中では、
人間のほうがかえって、架空の映像のようだ。
もっとも、住み馴れてしまえば、立場は逆転してしまうのだろう。
風景は、ますますはるかに、ほとんど存在しないほど透明になり、
ネガから焼きつけられた画像のように、自分の姿だけが浮かび上る。
自分で自分の見分けがつけば、それで沢山なのだ。
そっくり同じ人生の整理棚が、何百世帯並んでいようと、
いずれ自分の家族たちの肖像画をとりまく、ガラスの額縁にすぎないのだから……
 
ブレヒト=異化効果だと習ったのだが、この「異化効果」をWikipediaでひくと日本語にしか項目がない。英語版のWikipediaには、Non-Aristotelian Drama(非アリストテレス劇)だと書いてある。文学作品が持っているカタルシス効果を否定した演劇を非アリストテレス劇というのだそうだ。
 
Defamiliarization
 
表現としての異化効果
→日常的観念からの跳躍
話の筋としての異化効果
→登場人物への共感の拒否
 
バリー・リンドン」の異化性
時はイギリス貴族の最後の春…主人公エドモンドバリーはくだらない色恋沙汰で良家を追い出され、軍隊で荒くれとしての生活を重ねる。特異の虚言で身分を詐称し手もぐりこんだプロイセンの将校の下で正体がばれるも、イギリス人貴族の博徒バリバリの手によってイギリスへと逃れ、ばくちによって英国貴族社会でのし上がろうとする。彼はリンドン家に目をつけ、リンドン家当主の死に乗じて後家となった夫人と結婚し、まんまと貴族の世界に入る。子宝に恵まれ、順調に出世を続けるバリーであったが、善リンドン家当主の息子の画策によって社会的地位を失ってしまう。実の息子しか遺されていないバリーの身の上に、落馬事故による息子の死という悲劇が襲い掛かる。死の床にある息子に語って聞かせるのは、軍隊時代の、実態とはかけ離れた武勇伝。バリーの涙は息子の死ゆえか、息子の死に際しても嘘しか言えない自らのその情けなさゆえか。廃人同然となって酒におぼれるバリーに、前当主の息子がペストるによる決闘を仕掛ける。決闘の日、先に撃つことになったのは義理の息子のほうであった。しかし彼はうっかり暴発させて、バリーから狙いを外してしまう。それを見たバリーは、情けをかけたのか、自分が撃つ番に明後日の方向に向けて弾を放つ。次の義理の息子の撃つ段になって、凶弾はバリーの足を砕いた。足の切断手術後、バリーは生家に戻ることとなる。リンドン夫人はバリーの生家への仕送りの手続きの書類に、もう戻らないバリーの姿を見るのであった。
 
だすえんで
 
バリー・リンドンでは批判的見方までは要求されていないか。違うか。
 
『肝っ玉おっ母とその子供たち』
この戯曲を読んで考えたのは、戦争によって翻弄される人の愚かさ、戦争の惨めさといったものではなかった。独りで考える人がたどるであろう、堂々巡りの荒れ地についてだ。途中に「気付きの種」があったとしても、人は自分が置かれている世界からは容易に抜け出すことはできないのではないかと思うのだ。
 
「肝っ玉おっ母とその子どもたち」では、娘の太鼓が気づきにあたる。魂の叫びのようなものはあるが、明確には言語化されない。そして、それでもまだ歩き続けるべきなのか、立ち止まって言葉を発するべきなのかという問いに簡単に答えはない。
 
気づきと目覚め
 
カタルシスの必須性
 ↓
これを我々は理論家できていないのでは?との指摘
であるがゆえにアンチカタルシスがぴんと来ない。
 
我々は娯楽作品がカタルシスを持っていることは知っている
文学作品がカタルシスを持たないと思っている。
だから、「これは文学だ」というラベル付けがあると十分に異化的な読み方を要求されていると感じることができる。
 
文学を書くんだ、と言う動機づけが何割か含む「カタルシスからの逃げ」
逃げるまでもない。どうせカタルシスなんて意識して書かなければ得られない。主要な概念であることがみんなわかってないんだから。
普通に書くだけで非カタルシス的な作品へと異化される。素人の作品がそうであるように。素人がバッドエンドばかり書くという話があるように。
 
〇異化効果的表現
日常的事物の非日常化
まったく異なる見方の提供
 
〇異化効果的筋
共感できないキャラクターへの
批判的な態度を要求される筋
しかし必ずしも共感不能なわけではない
というか完全に共感不能じゃまずい
 肝っ玉おっ母には涙するだろ
 
キャラクターの情動の重大な揺らぎに
共感したいという欲求を充足する
 
真に異化的な話は既にカタルシスを持っている。
 
異化的でありながらカタルシス的でもある話。
 
キャラクターの行動が一般的観念からすると大きく外れていて作品的にはあたかも共感不能である体をしつつなおかつそうであってもキャラクターの情動に共感可能な作品。行動に共感不能、情動に共感可能、みたいな?
日常の異化が遍く妥当する本質へと回帰する…
とはこういう意味だ
異化による
 
 
@Tangsten_animal じゃあ異化の対義語ってなんだろう。というのはいままでうまく結論を出せていない
うん。そこでさっきのノーパンの対義語の話になるわけなんだが、たしかにその状態は存在するのに輪郭としてほぼ意識されていないまま、しかし逆に意識のほうを動かしていくもの(名付けられてるかどうかは意外に重要ではない)があって、そいつの輪郭を暴くことが異化なんだと捉えている
だからその輪郭を消音することが異化の対義になる(でも名称は思いつかない)と今は思っている。そして別に創作に拘る必要はな

H.31.4.21用レジュメ

ベーシックインカムとは何か?一律最低限所得保障のことです。
定義を語るより他の社会政策との違いの観点から見ていくとわかりやすいと思います。
 
国民全員に「最低限の生活ができるだけの金銭的保障をする」
ベーシックインカムとはこれだけです。
よく言われます。「共産主義とは何が違うのか?」
共産主義は働かないことが罪になります。しかしベーシックインカムは全く違います。ベーシックインカム社会では別に働かなくてもいいんです。社会の個人個人が自由なやり方で社会に貢献して行くことが許されている自由主義的な政策です。
よく言われます。「既存の社会保障とは何が違うの?」
はっきり言いましょう。福祉とは差別の体系なのです。社会の中から弱者を選びとって所得を給付する……。これが差別でなくて何でしょう。彼は社会の中で劣位に位置付けられ、自尊心を損傷します。福祉と言う名の差別の体系から社会的弱者を解放するのがベーシックインカムなのです。
 
コストは膨大なものになるでしょう。しかし我々は豊穣の地に住んでいます。これからのAIによる技術革新によりかつてないほど人類の富はますでしょう。そして仕事は奪われていくでしょう。ありあまる富と仕事の欠乏、その両方の対処するための政策がベーシックインカムなのです。
 
【思想としてのベーシックインカム
ーー編・北條カズマレ
 
世界が今のままならベーシックインカムは単なる夢想的ユートピア思想に終わるだろう。だがそうではないのだ。
 
 
よくある疑問シューティング
 
「全員が働くべきという考えの元、就労支援するのが名目なのが生活保護
「全員で働いて、全員で成果を共有するのが共産主義
「働きたい人が働いて、働いた人が成果を受け取るのを保証するのがBI」
 
 
必要条件
1.収入、資産を問わない。
1.行状、思想、外見等を問わない。
1.一律に収入を発生させる(居住地域による遅延などが生じない) 
 
ベーシックインテリジェンス(飛浩隆)、ベーシックオナー(ベーシックシヴィルライツ、尊厳の再分配、)、ベーシックインフラストラクチャー、ベーシックライフライン
 
推奨条件
1.生じた余暇を活かせるインフラが整っている 
1.制度自体への批判が利用者への差別意識につながらない
 
インフラへの接続
・識字能の獲得
・智のストアへのアクセス可能性
 
「労働はスティグマ語彙にあふれている。負のイメージ。バラマキ、失業…例えば失業者を免業者と言い換えたらどうだ?世帯年収の増加、女性の社会進出は家庭内労働から免業され自由になるはずだった女性を労働市場に拘束した」
 
~労働、所得、尊厳の癒着の自明性を疑うこと。~
 
労働が国民・非国民の線引きの中心、「ご職業は?」
 
福祉国家は賃労働、経済成長、完全雇用に依存してはじめて成り立つものだった
(移民への依存)
 
福祉とは選別であり差別化であり対立の原因であり、ヒエラルキー形成である。
 
福祉の本質は個人個人の保護であり、それ以外はすべて差別の再生産であるのではないか。
 
・アンチ「福祉国家」の租税=社会保障政策論 : ベーシック・インカム構想の新展開
 
福祉国家下での福祉受給者の自尊心や自立心の損傷が問題とされ(心情の問題ではない。)
「失業と貧困の罠」からの脱却が福祉制度改革の課題。
 
戦後福祉体制とは、”完全雇用下でのフルタイムで働く青年男性労働者と、家庭内での無償労働に従事する専業主婦とで形成される、一組の夫婦を標準家族として設定しつつ、働いて得られる賃金から社会保険料を拠出することによって社会保険の受給権を獲得する”
  というもの。
  
BI構想がアンチ福祉国家たる性格を有するのは、その所得保証が第一に家族を単位としてではなく個々人に対して行われること、第二に他の所得の有無にかかわらないこと、
 
家族単位の福祉→個人単位の福祉
 
標準家族というイデオロギー(奇しくも、LGBT運動はこれへの共同戦線を張った)
 
常にささやかれる批判は、雇用制度を損なわないか、費用が大きすぎるのではないか、家族制度を損なわないか。である
負の所得税は、世帯家族への資力調査がおこなわれ、その程度に応じて支給されるもの。だが所得が増加すれば支給される額が減少し、失業と貧困の罠には束縛される。
 
労働という苦役からの解放
nasuさんのTwitter返信
モチベーションの話は平行線だとおもいますねー。BI論者は強制長時間労働こそがモチベーションを奪い潰しているって認識、あるいは目先の食糧しかモチベーションにならない生活が脳の変質を招き嗜好品/薬物中毒者の増大、それを鴨にする産業の蔓延を支えているって話ですから。
 
「仕事のあとの一杯のビール」にしか喜びを見いだせない人生。仕事に奪われた快楽をあとから取り戻すだけの人生。
ハレとケによる蕩尽
 
資本主義経済が到達するところの「極端な資源浪費」を回避できる。

【レジュメ】これからの世の中を支配するコミュニティの在り方について

「合(現段階では界隈と読み替えても可)」
リアルおよびネットでつながる緩い個人の連合

〇存立条件
・代替不可能なアトラクター(例えばイケハヤ、えらてん)
(もしかしたらラファエルは仮面を継承することで代替可能かもしれなかった。)
※アトラクター(引き付ける者)とは、「合」の関係ネットワークの中心となり、新たに人間を引き寄せ関係性を創出していく魅力ある人間のことである。
・アトラクターを中心とする個人同士のネットワーク
・リアルの場とネットワークの場、どちらも持つ(オンラインオフラインどちらでも影響力を行使できる)

〇特徴
・接続する人間(所属する人間ではなく、こういう言い方がされる)には、忠誠心ではなく、興味を持ち続けることが要求される。
・ネットという遠距離関係性と、リアルという近距離関係性を持ち、両者はかなり異なる。
・明確な内部ルールを持たない(システムでは動かない)、義理や友情など、非合理的な関係性でつながる。
・組織では「ない」
・出入が自由(所属は必須でない)
・特定の個人は、アトラクターとの距離が近いほど、「合」全体への影響力を高める。
・ある目的が出現するたびに、「合」がアクセス可能なネットワークから人材を引っ張ってくる。
・必ずしも個人個人は明確な目的や所属意識や「合」全体の大戦略への賛成意識を持たなくてもいい。
・相互扶助性を持つことを目指す。

〇十分に発展した「合」が備えているもの
・相互扶助性
・アトラクター代替性(これは本当に可能かどうか不明)
・目的即応性(ある目的が生じたときに滞りなくそれに適した人材を用いて計画をくみ上げられる)

〇「合」が備えることができるもの
・ネットワーク内での非定型婚姻制度

※まだ十分に発展していない「合」を「界隈」と呼ぶ
※「界隈」の段階で相互扶助性など、全体に負担を強いる要素にコミットすると瓦解するか、発展が止まる。
※歴史的には地縁血縁集団と似る。

H.30.07.07 レジュメ

〇=NASUさんの発言
 
弱者も強者も地獄のようなゲームのプレイヤーだ。強者が力を持つように、弱者も力を持っている。それは力とすら呼べないおぞましいもので……毒。毒としか呼べない。悪と読み替えてもいい。悪は弱者の持ち物だ。強者が持っていていいものではない。強者が悪を持っているとすれば、それは弱者から盗んできたものだ。だから、強者は善でなければならないし、弱者は悪でなければならないのだ。少なくとも、弱者の悪徳は許されなければならない。
 
堕落の肯定→それまでの短編では致し方ないものとして描かれてきたこれが鈴木先生においては許されなくなる。
 
鈴木先生においては、強者と弱者という問題設定はやはり存在する。
むしろ強者も弱者も平等に背負うべき責務を強者が強者であるから弱者が責務を免れ強者に背負わせる理不尽。
弱者が弱者であるのは「普通のこと」。つまり、堕落は自然であり、罪でなく、致し方ないこととして絶望される。しかしそこを何とか普通以上の努力を示していただくことで、世界はよりよくなる、という思想。
 
「普通のこと」とは、世間一般に珍しくもない欠落。より恵まれた人間が配慮と肩代わりをすることが当然の責務とされる、弱者を弱者たらしめる「事情」。
 
〇そも、強者こそ弱者に責務をアウトソーシングしているのでは?
〇悪徳の追認=堕落の許可は弱者と悪徳の本質的同一化を再生産する、偽の寛容性。
 
あなたは明確な欠落の存在しない「強者」なのだから、配慮されるべき「弱者」の責務を肩代わりしなさい。
…という文脈において、「」内は逆では?
 
他人に責務をアウトソーシングできることが「強者」の条件なら、完全で十分な配慮がなされた「弱者」はむしろ強者なのでは?
……逆差別批判の安易さに陥ってきた
 
そもそもあらゆる欠落を完全に埋め合わせることができる「十分な支援」など現時点では存在しない。欠落を充填することで全員が平等になれるという理想が存在し、弱者が負い目により弱者性を強化したり、逆に疑似的な強者に転じたりという現実が存在する。
 
身体的障害の有無、尊厳を踏みにじられた経験の有無、金銭の有無、ほとんどが不可逆な、補填不可能な欠落、が、強者と弱者を分ける。
 
〇弱者の存在が不当なのではなく、強者の存在が不当なのである。完全無欠の欠落のないアイディアルな存在が前提なのではなく、各人が各人、欠落を有しているのがデフォルトであり、強者とはその欠落を不当に充填された、あるいは無化された存在なのである。
 
武富作品における、特に、『掃除当番』における弱者と強者とは?
→主人公は「強者」である。この世界観における判断基準からは、一見して配慮に足るだけの欠落を見出すことができないからである。
彼女はむしろ、欠落を抱えているのに不当にそれを無化された「強者」なのである。
自分の身に降りかかった理不尽を受け入れることしかできないという欠落。
→掃除当番をぶっちする、責務をアウトソーシングできる者たち、は、自らの欠落をことさらに強調することで配慮を独占することのできる特権的地位を獲得する不断の努力を欠かさず、現在の「配慮を受ける弱者」という地位を獲得している。
 
…ここに強者は存在しない。
 
主人公は「恵まれているから、幸福だから、『強者』をやめられない。自分の事情は配慮を受けるには不十分であると感じている。『事情』という特権の不足を感じている」
自分は強者であるのだから配慮する側、弱者を支援する側でなくてはならないという認識。
 
支援、とは、「弱者」が放棄・逃亡した掃除当番という責務を、残されたものが拒否することなしに引き受けること。
 
この場合の支援、とは、弱者の弱者性を直接的に解消することではなく、弱者にも強者にも平等に降りかかる責務を弱者特有の「配慮されるべき事情」を理由に強者へとアウトソーシングすること。
 
責務、の内部において、もっともパフォーマンスを発揮するのは主人公であり、そもそも弱者のうちには責務をこなす能力を十全に持たないものがいる。
 
責務、は、結果的に、「強者」に優先的に与えられる。
 
主人公はもっとも称賛を受け、その尊厳を強化されるべき立場にいるが、配慮されるべき事情を持つ弱者たちの尊厳を傷つけないためにそうされる機会を奪われている。

レジュメ H.30.5.16

物語(ナラティブ)
  と
物語(ストーリー)
  は
  違う

ナラティブは体験
ストーリーは情報

物語は何を語るか、何を語らないか、ではなく、何を強調するかである。

物語には現実は存在しない。読者の前提知識に全面的に依拠して想像を惹起するだけである。
エーコ「物語はすべてを語り尽くすことはできない。強調すべきことを強調するだけだ。空白を埋めるためには、読者の協力を要する……あらゆるテクストは、読者に自分の仕事の肩代わりを求める怠惰な機械なのだ」

語り=モデル作者が存在しない
   つまりかりそめにも意図が存在   しない
強調=モデル作者が存在する
   つまりかりそめにも意図が存在   する
 
モデル読者が「もっともその作者が意図した読み方に近似した読み方をすることに成功した」と目された時

メタモデル読者
報告価値、という概念

「語り」が報告する個々の出来事は報告価値という基準をクリアしていない

「強調」に基づく物語はある一つの調和を目指して個々の出来事が報告価値と言う基準に沿って整理選択され配列させられている。

ナラティブの定義(リースマンによる)
・特徴的な〈構造〉を持つ。
・〈時間の流れ〉と〈起こった出来事の報告〉を含む。
・語り手が聞き手に対して、出来事を〈再現〉してみせる(実際にあったのだと〈説得〉する)。
・聴衆の〈感情〉に働きかける。
・研究インタビューや治療的会話の中での〈長い語り〉である。
・〈ライフストーリー〉である。

非ナラティブ的ストーリーを夢想してみる。
=箇条書きのプロット
 ↓
 存在不能

ストーリーを内包しないナラティブ

「物語全体に結論を持つ因果関係の連なり」はストーリーか?ナラティブか?それともこの問いはナンセンスか?

千野帽子
「情報と体験は違う。ストーリーは、それだけでは情報ですが、ストーリーを表現・提示したナラティブは、それを読む人訊く人に体験をさせるということになります。」

人は物語る動物であり、語られる物語はすべて仮説である。

ウンベルト・エーコ
「テクストは読むものであり、利用するものではない。小説の森は万人のためのものであり、誰か一人が勝手に歩き回っていいものではない」

「テクストとは、読者に仕事の一部を任せたがる怠惰な機械なのです。読者がテクストについて疑問を抱いても、それを作者に尋ねるのは無意味なのです。ただし、読者は、作品が推奨する理想的な読み方(モデル作者の意図)について常に既に確認したモデル読者であることを心掛けなければなりません。」

「作者は、瓶に封じた手紙を海に投げ入れるように、テクストを世界に送り出す時、つまり、単一の宛先ではなく読者の共同体へとむけてテクストが生み出されるとき、作者は、自分の物語がモデル読者によってモデル作者意図通りに解釈されるのではなく、複雑な相互作用のストラテジーによって解釈されるのだと知っています」

「テクストは読むものであり、『使う』ものではありません。妄想の起爆剤としてテクストを使うという行為はだれもがやっていることですが、それは人前にさらけ出されるべきではありません。テクストを読む際には、ゲームのルールがいくつかあり、モデル読者とはそうしたルールに沿って遊ぶ方法を知っている人のことです。知ったうえで『道を外れる』のと、知らずに勝手気ままに歩くことは、まったく別の行為です。」

モデル読者とモデル作者
テクストに書かれている、「理想化された作者の意図=モデル作者意図」を正確に読み取ろうとすることで読者はモデル読者になる。

 

「語り」もまた強調の一側面を持つ。ある規範・制度の内部にとどまる限り、その規範・制度を強化糊塗する方向性の「強調」を発揮するからである。
どうしてそこから逃れるのにいちいち「天才的発想力」なんてものが必要になってくるか。

小説の分析
・報告価値に基づく情報の提供
・文体
・ナラティブ

・報告価値のある情報
非日常的インシデント

それは何か?=我々の世界との差異
      =その世界でも特異とさ       れる出来事
・文体
合う合わない
それ自体の芸術・娯楽性

・ナラティブ
それらを総合した追体験提供

・物語の濃淡
ストーリー

より情報羅列的
↑↓
より追体験

ナラティブ

  
慣れた階段を踏み外す
なぜ?
なぜ
と問うときには
すでに日常の階段を踏み外している

――高橋喜久晴

ムーミン谷になぜはない
日常の恒常性の既存がなぜ、を生む
なぜ、とは理由の希求であり、物語への渇望である。この世の理不尽の前に膝を屈してこそ、なぜ、は生まれる。
それは実存的な問いである。

笑い=日常の盤石性の再確認

・物語の駒としての登場人物
物語優位性→キャラクターの一貫性を放棄し、物語を進める推進剤としての役割しか持たせない。

モデル化されたキャラクターと作中キャラクターの齟齬が不快、キャラクターのモデル化がそもそも不可能である等の読者側の問題が出てくる

キャラクター優位性→読者が心中でモデル化したキャラクターの行動と作中キャラクターの一致、または選択肢の可能性の幅の中に納まっている物語(幅に収まるとは必ずしも読者の想像どおりにふるまうとは限らない。読者が考え付かず、なおかつ読者の心中でモデル化されたキャラクターから想像される選択肢の閾値内の選択肢を作中キャラクターが取ることを読者は受容し、しばしばそれはより価値ある刺激となる)

しかし、上記の一般論でもキャラとストーリーはどちらが優位か、という問いは解消されない

モデル化されたキャラクターのイメージを毀損しない範囲内でならキャラクターの側がストーリーからの要請にこたえてもいい。

 

〇つまりは、ストーリーが受容されるかどうかは、キャラクターが受容されるかどうかに換言されるのか。読者の心中でモデル化されたキャラクターへの共感こそが物語の本質なのか。だとするならストーリーとは何か。キャラクターの副産物なのか。

キャラクター∋ストーリー

少なくともストーリーはキャラクターの人生のタイムラインの一部である。

ストーリー=情報
ナラティブ=体験

ストーリー=シーンの羅列
ナラティブ=シーンの能動的連なり

シーンのあいだあいだに意味を持たせるのがキャラクター

(例
朝起きた、歯を磨いた、散歩に出かけた、犬を見た、家に帰ってきた、食事をした……

語り(小学生の作文かカウンセリングルームにしばしばある)
その次の段階がストーリーでありそのまた次の段階がナラティブである。


ゴールは道筋によってあらしめられる
道筋は旅人によってあらしめられる

体験性こそが最も重要な要素

キャラクターは遊園地の乗り物
ストーリーは風景
シーンはイベント
読者は客
ナラティブは乗り物、風景、イベントを通して得る体験

読者はキャラクターに乗ることで物語を追体験する。

乗る、とは、理解のことである。
理解とは、キャラのモデル化に読者が成功することである。(理解した結果、シーンとシーンの繋がりに物語性が発生し、意味の通るナラティブが創発される。)

キャラクターは常にストーリーが提供するシーンに対してリアクションをとり続ける。それを常時読者は摂取し、モデルをより精緻なものへと近づけていく。

作者もまた常にキャラクターのモデルをいじり続けているが、ここはやはり読者の心中のモデルと選択が一致するか、「予想は裏切り期待は裏切らない」ものでなければならない。

ではストーリーとは何なのか?

キャラクターのモデルの精緻化のためのプロセスである。
作者の中にコンプレックスにくみ上げられたモデルが、予測されないがしかし不自然でない選択肢を提示することで感動が生まれる。その一手以外は読者の中のモデルと作者の中のそれは、完全に一致していなければならない。

かなりキャラクター原理主義よりの話に帰着してしまった……。

ではストーリー寄りに話を進めると?

ストーリーが企図するメッセージ、感情励起、テーマ性の構築のためのコマがキャラクターである

実際はキャラクター主義とストーリー主義は交錯混交しながらナラティブを紡いでいく。

キャラクターが従属するのはストーリーではなくシチュエーション(シーンの前提条件)?

シチュエーション→世界観

ストーリーはどう生まれるのか
キャラクターはどう生まれるのか
ナラティブの終局においてそれらはどうなるのか

ストーリーはシーンの時系列順の羅列(回想を除く)、相互に筋の通った因果関係の一本の筋
キャラクター不在のストーリーは段取りである。
(例
恋人が死んだ。悲しみのあまり自殺した。

誰にでも納得のいく段取り的因果関係。理想化されたキャラクターが取りうる規範意識、時代従属的行動様式から一歩も出ない、というストーリー。そうではないイレギュラーな行動規範を内在化したキャラクターが不在だと、ストーリーはこうなるしかない。

恋人が死んだ。悲しみのあまりアイスホッケーを始めた。

キャラクター不在である限り意味不。しかしここにダイナミズムがある。キャラクターが十分にモデル化され、それに共感する限り、読者はここに違和感ではなくダイナミズムを感じる。

これを十全に開陳する、読むことでキャラクターのモデル化ができていくものがナラティブである。なぜそんなことをするのか?キャラクターのモデル化に成功した結果、シーンとシーンの繋がりに物語性が発生し、意味の通るナラティブが創発される。ナラティブはナラティブを創発するためにキャラクターの情報をモデル化可能な形で提供するメディアを構成要素として持つ。

〇私の物語づくりを分析しよう

まずシーンが思い浮かぶ(感動の再現、引き写し、それらの単純には元ネタに辿れない改変パターン)

そのシーンを演じるに足るキャラクターの想定。まだこの時点ではキャラクターは作者に内在していない。

ストーリーの構築。まず終わりと始まりのシーンを想起し、最初に浮かんだシーンの挿入し、つじつまの合う間のシーンを考える。この時点で段取り性が出ないように注意する必要がある。

最後に、そのストーリーをナラティブに昇華させることのできるキャラクターを考える。もちろん、考えることによってストーリーは改変されていく。ストーリーの改編とキャラの構築は互いにフィードバックし合う。

#魔女集会で会いましょう が流行っている

Twitterで、果てはInstagramでまで、流行を見せているハッシュタグ

#魔女集会で会いましょう。

これに関して私見を述べたい。

 

まず、観測された共通点として、

・拾われる孤児、もしくは魔女は、少なくとも最初の時点において、誰からも愛されない存在でなければならない
・魔女は物質・基礎教育面において孤児を充足させねばならない。孤児は精神的面において魔女を充足させねばならない。たとえ別離が定めでも。
・寿命の差による死別が存在する場合、魔女は大いに悲しまねばならない
魔女裁判魔女狩りには魔女は敗北しなければならない。それを免れる唯一の道は拾った孤児ないし動物に守られることによってである。
・魔女および成長後の拾われた少年には無数のパターンがあるが、拾われる前の少年が取りうるパターンは少ない(身寄りがない、いけにえとして魔女にささげられた、身体的ハンディキャップがある、等)。魔女に拾われる以外、幸福を得る道があってはならない。
・魔女に何らかの目的がある場合、拾われた少年はそれに異を唱えてはならない。魔女が悪事をするなら少年はともにそれをしなければならない。
・拾われた少年は成長した後、表面上はまだしも根本的な部分で魔女から精神的自立をしてはならない。魔女のほうは「子離れ」をしてもしなくてもよい。

がある。

これらを基本的に抑えておけば創作するうえで見る者の共感から外れることはないだろう。

 

もう少し分析してみる。

よく見られる言説として、

「このハッシュタグでみられる創作物は女の欲望と理想を端的に体現している」

というものがある。

どういうことかと言えば、

・年を取らない魔女という設定

・自分好みの理想の男性を育てたいという欲望の充足。

・血がつながらない疑似親子であるがゆえに恋愛関係も許される。

・そもそも魔女という存在が究極の女性性の発露ではないか

であるがゆえにあの創作物は女性の単純な欲望充足が見られるというのである。

これにはどうも違和感がある。

前時代、ロリキャラブームの折、「男性オタクは自分より弱いものを好む」とする言説がやたら流行ったのと同じ安易さを感じる。

何か…もう少し探ってみる必要があるだろう。

最後に、まとめて置いたメモを書いておく。

何か拾ってくれるならうれしい。

 

基本構造
・既存社会と切り離された無背景の子役
・不老、メンター、でも魔女狩りには弱い
 という属性を持った母親役
 
エモーション・コア
女の理想
→不老の自分と理想の息子との結婚
(ロリキャラを好むオタクの精神分析並みに胡散臭いか?)
 
基本イベント
・不老の母親役と寿命を持つ息子役との別離
魔女狩りで守り守られる立場が逆転する
 
疑似母子相姦の成立が一つのハッピーエンドだが、そのあとの別離は既定路線
 
ありえそうだけど見たことのない路線
→魔女が不老の呪いを解き、人間と同じ時間を歩み始める
→これがなぜないのか
 
発起者、九頭氏の提示した設定
『魔女が拾った男の子が成長して、魔女よりでかくなって(ごつくてむさくてがっしりしてて)魔女を全力で愛して守る男になる話』→このタグで好き勝手していい
 
 
孤児の拾われる前の設定のパターン
・身寄りがない
・いけにえとして魔女に捧げられた
・ハンディキャップ(目が見えない、口がきけない)がある。
 
例によって、単純にこれを転倒したパターンも存在する。(魔女がいけにえにされる、魔女にハンディキャップがある)
 
魔女の孤児を拾う前のパターン
・完全無欠の魔女(でも魔女狩りには負ける)
・疎外感を感じている魔女(人間なんて…)
・自分一人では解決できない問題を抱えており、成長した孤児がそれを解決してくれるパターン
 
成長後の孤児
・魔女と一緒に悪いことをする
魔女狩りから魔女を守る盾になる
孤児が立派に成長する
物質的充足の表象

 

【小説に関する言説】キャラ造形

キャラ造形のお手本

恐らくみんなが知らないであろうとあるキャラを中心に論を張っていこう。

 

具体例

そのキャラとは『水中騎士』(木城ゆきと)に登場する女騎士、ルリハーである。

みんな大好き女騎士。まあそれはさて置き、このキャラの作られ方が実に教科書的でなおかつその造形が作中で明らかにされているのだ。

ざっとキャラの情報を伝えておく。

彼女は二人の偉大な騎士を両親に持つ、騎士の駆け出しである。

まだまだ弱輩で未熟ではあるが、本人は既に一本筋の通った人格を有している。

その彼女なのだが、何がここで取り上げる理由なのか。

具体的に語る前にキャラの内面を語る上での三つの要素について語りたい。

この三つだ。

それは何か。

自己認識とは、自分で自分をこれこれこういう人間だと信じている認識の在り方のことである。

他己認識とは、他人が自分をこれこれこういう人間だと信じている認識の在り方のことである。

超自我認識とは、自分の顕在意識が把握できない自分の本当の望みのことである。本当はどうありたいかのことである。

 ルリハーはこの三つをまるで手引書のように開陳してみせるのだ。それもたった一話の中で。

彼女は本当に厳しく育てられた。騎士として。彼女もそれに応えようとした。愛されるために。

その心を覗いていた悪魔は言う。

この娘の望みは騎士として親に認められること、恐れていることは騎士になることに失敗し、親に見捨てられることだという。

しかし聡い猫は言う。そうではないと。

彼女の本当の望みは自分が騎士になれようがなれまいが関わりなく親に愛してもらうこと、そして本当に恐れていることは、自分に無償の愛を注いでくれなかった両親を心の底では憎んでいることを認めてしまうことだと。

これなのだ。

これこそがキャラ造形のお手本だ。

彼女は自分を屈託なく夢へと邁進する人間だと思っている。

しかし他者から見れば危うい存在に見える。

そして心の奥底には埋められない隙間を抱えている。

生きたキャラはこれら三つの側面から成り立っている。