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北條カズマレの庵

自分のネットでの活動の拠点です。自作の動画・自作の創作論などの解説を載せていきます。

【小説に関する言説】6.プロット(三)

プロットの有用な使い方

トーリーは変化の連続だ。変化のない物語はお話にならない。

個々のシーンもそう。変化がなければそのシーンの効果に疑問符がついてしまう。

じゃあ具体的にどう変化させていけばいいのか。

 

両輪を持つプロット

変化のあるシーンを書かなければならない。

変化のないシーンはつまらない。

そもそもシーンをプロットに詰め込んでいく理由はお話を先に進めるためだ。

ではびゅんびゅんととにかく先に進む物語がいいモノなのか。

とにかく前進し続ければいいのか。

それもいいだろう。しかしそこから外れたらアウトという話ではないのだ。

バトルラブコメを思い描いてほしい。バトルとラブコメという日本の筋、両輪を持つお話だ。

片方だけの筋に焦点を当てて見て行こう。

物語の序盤。学校へ向かう道の途上、幼馴染ヒロインとの普通の日常が描かれる。…この時点でバトル展開は全く進んでいない。

中盤、散々戦ってきたところでヒロインとの穏やかな日常が描かれる。…ここでもバトル展開は全く進んでいない。

どういうことか。いついかなる場合もそのシーンは筋を進行させるために書かれなければならないのではなかったのか。

違う。

バトルパートが進んでいない時、そのシーンはラブコメパートを進行させる役割を担っていたのだ。

つまり、このシーンはバトルを進行させる役割、このシーンはラブコメを進行させる役割、と、二つの筋の間をプロットはジグザグに行ったり来たりしながら物語の進行という階段を上がって行っていたのだ。

なぜジグザグなのか。物語には緩急が必要なのだ。緊張感あるバトルパートが連続するのはまずい。

だからこそバトルパートの箸休め兼もう一つの娯楽要素としてラブコメパートが交えてあるのだ。

一つの筋しか持たない物語ではこうはいかない。

勿論それがダメというわけではないが、緩急を一本の筋で実現しないといけないわけであるから…。

…それはそれで大変な考慮を要するわけだ。

筋が二本あれば難しいことは考えずに行ったり来たりで緩急を実現できる。

両輪を持つプロットは優秀というわけだ。

 

このくらい。

ではでは。

【小説に関する言説】6.プロット(二)

プロットの中でのキャラクター

キャラクターとプロットは密接にかかわりあっている。

キャラクターから物語が生まれる場合が大多数だからだ。

今回はそれに関する説明を紹介していきたい。

 

キャラクターの置き方

別々の考え方をもつキャラクターが三人いればもうプロットはできたようなものだ。

テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼ。形、影、神。自己認識、他者認識、超自我認識。

ともかく違う属性を登場するメインキャラクターに与えることだ。

全員が「苦悩」を抱えているようにする。

どんな「苦悩」を抱えているか?それを解決するために何をしようとするのか?

それがプロットの中でキャラクターを動かすときにするべき根源的問いだ。

そしてその「苦悩」は荒唐無稽でないものでなくてはならない。

読者が共感・理解可能なものでなくてはならないのだ。主人公の苦悩ならなおさら。

「アーそういえば自分もそんな気持ちになったことあるかも、このキャラクターたちのように実際に行動には移さなかったけど」

それが大切だ。

キャラクターに対し、「何でそんなに苦悩しているの?本当はどうだったらよかったの?」と、最初に問いかけることだ。

そこで浮かび上がってくるキャラの性格があれば、それに基づいてすべてのプロットを組むことも可能。

 

キャラクター同士のやりとりの意味

人と人の間のコミュニケーションを駆動させている原動力は「理解しあいたい」という欲求である。

しかしコミュニケーションをできるだけ長く続けたいとも思っているのだ。

実際に理解しあってしまったらそこでコミュニケーションは終わってしまうから、もったいぶってなかなか本心を言わない。

人間の欲求とは実に矛盾していると思う。そしてこの矛盾こそ物語を成立させる根本ではないのか?

キャラとキャラもわかりあいたいと思っている。いや、思わせないといけない。

そして理解に達するその過程という最もおいしい部分こそを物語の見せ場にするのだ。

わかりあいたいという欲求、わかり合おうとする行動、それがきちんと描けていないとこういうおいしい部分はできてこない。

理解への過程こそが物語の本質であり、人が最も見たい部分だ。

 

具体的描き方

主人公の抱える「苦悩」を様々な角度から見つめるキャラクター達を用意しよう。

「苦悩」をたった一人にしかかかわりのない、閉じた「苦悩」にせず、あるチームが別々の形で共有する「苦悩」にしてしまおう。

そうすればそれは小さなテーマに昇華する。「苦悩」は面白くなるだろう。

上でも書いたが、「苦悩」は共感可能でなくてはならない。しかし「苦悩」を解決するための行動は非現実的であってもいいのだ。

だが行動が非現実的であればあるほど、その行動に説得力を与える方法が必要になってくる。

それはほかのキャラクターの存在だ。そのキャラクターのため、という単純な作り方で非現実的な行動の不自然さを打ち消すのもいい。

しかしこういうのはどうか。

主人公の突飛な行動を冷静に客観的に分析するキャラクターを置いてみるというのは。

それなら主人公の行動自体には共感できなくても、そんなキャラクターに共感させることで物語への没入間を確保できるのではないか?

 

今日はこの辺で。

ではでは。

【小説に関する言説】6.プロット(一)

プロットについて

プロットを書き出すことは自分の各物語を客観視するのに非常に有効だ。

複雑な物語であればあるほどプロットを書き出して物語を可視化する必要は高まる。

何度かにわたってプロットの書き方について 得た情報を紹介しようと思う。

 

プロットの基本

まずプロットの基本的な書き方であるが、因果関係を書くということである。

「Aが生まれた。父のBが死んだ」はただの事実の羅列だが、

「Aが生まれ、父のBは養育費を稼ごうと無理な仕事をした『から』死んだ」ならプロットだ。

「~から」でシーンの中の出来事が繋がっていくのがプロットなのだ。

しかしそれが守られていようと、どんなにうまいプロットに仕上がっていようと、読者が先を読みたくなるように仕向けられていないのであれば、失敗だ。

金を払ってでもページをめくりたい。そういう衝動を抱かせることができるかどうか。

あなたの書いた作品は金を払ってでも読みたい作品だろうか。

我々素人の作品はたいてい「金を払ってでも読みたくない、苦痛」な作品であるはずだ。

読者に対する気配りをプロットの段階から込めなければ銭をとれる物語にはならないはずだ。

個々のシーンを面白く。プロットの構成要素である一つ一つのシーンが「魅せるための作り」になっていることが肝要。

読者の「知りたい」「先を見たい」という欲求を絶えず掻き立て、それに見合う果実を先に用意しておくこと。

注意をそらしたり、飽きさせてはいけない。

読者をあなたの世界でもてなし続けなければならないのだ。

「驚き」。それもいい。「小さな驚き」をシーンの中に少しずつ埋め込むのもいい。

とにかく読者に心地いい楽しめる空間を。それはプロットの段階で設計されていなければならないのだ。

 ぜひ、その世界を訪れたそのあとで何かしら読者の手に握られている、という物語を作っていこう。

プロット、気を付けること

シーンを用意するときの取捨選択の方法で、基準は一つだ。

「そのシーンが効果的であるかどうか」

面白いかという漠然とした基準ではなく、「作者が意図した、読者へ提供する効果」に対して寄与しているかどうかである。

「このシーンでは読者にこういう感情を与えたい」と決めたならそれを堅守した作りにすることだ。

そしてそれが積み重なった結果がクライマックスであるべきだ。

効果的なシーンの積み重ねの必然的結果。それがクライマックス。

 

今日はこれくらい。

ではでは。

【小説に関する言説】5.ハードSFとミステリーの類似

SF・ミステリーについて

SF(ハードSF)とは何か?

ミステリーとは何か?

どうしてこれらは近接ジャンルとして語られるのか?

そこを今日は攻めていきたい。 

 

ミステリーの作り

ミステリーとは何か?

「謎を提示し、謎に迫るように受け手が考えを巡らせるように仕向け、最終的にあっと驚くようなタネを明かす物語の一形式」である。

受け手に、「誰が」「いつ」「なぜ」「何を」「どうやって」その謎を謎足らしめたのかを明かさずに物語を進めるのだ。

最初に謎を提示する。その答えを最後まで明かさない。これがミステリーだ。

そして受け手に謎の解決までの道筋を気持ちよくたどってもらうために、「非現実的な何か」は出してはならないのだ。

「非現実的な何か」とは何か?

例えば、密室殺人があったとする。犯人はどうやって部屋の中に入り、また忽然と姿を消したのか。

答えは……テレポーテーションだ。

ではいけないのだ。読者は冷める。いや、怒るだろう。

これはお約束、というか、必然的定理なのだ。

「純論理的に受け手が謎を推理し迫ることが可能なお話」。

それがミステリーだから。

ミステリーは楽しい。

何故か。受け手が思いもつかないようなものを提供してくれるからだ。

受け手は推理する。これこれこういう風に犯人は犯行を執り行ったのではないかと。

しかし何か引っかかる……本当にそうか?

ババーン!種明かし!そういうことだったのか。

違和感解消と発見のよろこびが一気に来て大興奮。

……というわけだ。これがミステリーの醍醐味だ。

推理があと一歩届かない、負けた、という感覚と言えばいいだろうか。

 

ハードSFの作り

ハードSFとは何か?

「たった一つの論理的飛躍以外何も非科学的な要素のないSF」のことである。

つまり、少しだけ頭を柔らかくすれば、科学的知識がある限りその、「たった一つの論理的飛躍」に肉薄できるということだ。

それは謎と言ってもいい。

やや急いてはいるが、もう言ってしまおう。

そう。そうなのだ。これもまたそうなのだ。

ハードSFもまた、「謎を提示し、謎に迫るように受け手が考えを巡らせるように仕向け、最終的にあっと驚くようなタネを明かす物語の一形式」なのだ。

「(少しだけ頭を柔らかくすれば、科学的知識がある限り)純論理的に受け手が謎を推理し迫ることが可能なお話」なのだ。

この点においてハードSFとミステリーは非常に似通っている。だからこその近接ジャンルというわけだ。

 

やや足りないが、あまり具体例を思いつかなかったので(絶対ネタバレになるし)、今日はここまで。

ではでは。

 

【小説に関する言説】4.小説の心技体

小説は総合力

公募に受かるために気を付けること。

それは「小説は技術勝負じゃない」ということ。

技術があるからと言って売れる小説が書けているとは限らない。

売れるかどうかは総合力である。

編集さんはそこをちゃんと見抜ける。

信用して原稿を預けよう。 

 

心技体の「心」

それはアイディアである。企画である。設定とストーリーを含めたお話の中身である。

小説の良しあし、というか、物語を表現するメディア全般に言えることだが、これが良くないと文字通りお話にならない。

 長年公募に挑戦しつつ受からない人に足りていないのは大抵これである。

しかしそう簡単にはアイディア力、企画力なんてものは付かない。

これはインプット量に比例するのだ。

何故創作家は様々な分野にアンテナを張らなければならないのか。

アイディアを拾うためである。

ハッとさせられる物語の筋、誰も見たことのない設定、魅力的な世界観。

それらを生み出す力はインプットが支えるのだ。

インプットは怠らないようにしたい。

 

心技体の「技」

安心してほしい。

このブログを見ているような熱心な小説書きの方にはおそらく既に身についているものだ。

何本も作品を完成させ、公募に送り、そんな生活を続けて来たなら確実にこれは身についている。

文章力、物語の構成力、共感を得るキャラの作り方、読者の引っ張り方。

私はこういうモノを技術力と呼んでいる。

プロの作家ならほぼ確実に持っているものである。

整合性、お話としての完成度、きちんと落ちがついている、破綻がないこと。

プロならば(つまり商業で出版される作品なら)できていて当然だ。

問題はそこに搭載される中身なのだ。

卓越した技術を備えたプロだってアイディア、企画がダメなら「出来が良くて面白くない売れない小説」になってしまうのだから。

もっとも心配する必要のない能力かも知れない。

そして、ここができていなくても、公募で取られる時は取られる。

何故か。

企画力の方が大事だからだ。

技術力は出版物を作れる人間として調教される過程で何とでもなるからだ。

 

心技体の「体」

作家としての生産力、執筆速度、安定性。

公募では見過ごされてしまう能力だ。

これも大事。作家だってフリーランスの文筆家だ。

仕事をする人間として、契約相手に信頼を感じさせるためにはこれが必要。

納期が守れることは大前提として、年間執筆量もまた能力の一つと言えるだろう。

安定性とは?

他に収入があることだ。

そうでなければ出版社は怖くてそんな人と契約を結べない。

無職は怖い。

自分の生活の都合でいつ執筆をやめるかわからないからだ。

生活の安定は生半可な技術や企画を上回って改善すべき点になる。

 

今日はここまでというコトで。

ではでは。

【小説に関する言説】3.キャラ造形(五)

キャラ造形に必要なモノ

キャラクターをメアリー・スーや共感できないヤツにしないために。

 

主人公が備えなければならないモノ

少なくとも主人公はストレートな造形をしてはいけない。

脇役で刑事が出てくるならなるほど確かにそのキャラは登場時に警察署や事件現場にいてもいいだろう。

だが主人公は基本的に「アウトサイダー」なのだ。

血なまぐさい戦場の美少女や、学園に放り込まれた空手の達人やら、場違いさが必要なのだ。

環境とのコンフリクトが主人公の内面に強い独立心や不満を生じさせ、物語が動き始める。

それらの感情の源に何を設定するべきか?

弱さである。

人間的弱さこそが主人公の行動に説得力を与える。勇ましさ、卑劣さ、優しさ、残酷さ。

全ての根底に弱さがあるという造形をするべし。

しかしまあ弱さというモノをなぜみんなマイナスに捉えて隠そう隠そうとするのか。

欠点は魅力の一つではないのか?

始めに造形すべきこと、それはキャラの欠点であると思う。

例えば、「何を恐れているか?」である。

かなり広がりを持つ質問だと思うがどうであろうか。

しかしそれは共感を生むとは限らない。

受け手が自分を重ねられるのはかえってそんな葛藤をする主人公ではない、という事態は往々にして起こる。

で、あるがゆえに、動じない、わかりやすく、どこか達観した客観的視点を持つ人物が必要になって来るのだ。

主人公たちが異常な人物であればあるほどそうだ。

異常なキャラに対置される共感可能で自然な感覚の持ち主となるキャラこそがそこには必要というわけだ。

 

主人公の活かし方

そう、物語はもちろん主人公だけで出来上がっているわけではない。

複数の登場人物によるハーモニーが必要になって来る。

まず主人公が抱える葛藤、不満、弱さ。

それがたった一人の問題ではなく、他のキャラクター(主人公に繋がりがあるキャラないキャラ問わず)もまた様々な角度からそれについて悩んでいる風に作るというやり方がある。

主人公を内面から描くことは主人公だけを描いているだけでもできる。

もう一つ必要なのは、外から主人公を見つめるキャラクターだ。

そしてそういうキャラをはじめとする他のキャラは、見るだけでなく、主人公の行動の発起点にならなければならない。

何故なら普通受け手が荒唐無稽だとして拒否する主人公の突飛な行動も、他のキャラが動機づけの理由になればなんとかなるものなのだ。

 

物語を先に進める敵たち

主人公は困れば困るほど受け手を引き込むことができる。

一番簡単に困らせる方法は、難物を、敵対者を、嫌われるような人物をぶつけることである。

要は悪役か、対立者。

悪役は物語にとっては重要な位置を占める。

物語は時にキャラを生み出すこともある。悪役は物語の要請に応じて悪いことをするからだ。

しかし対立者は違う。彼の行いは物語の方を作るための、自分こそが主人公であると思っているような行動だ。

彼には自分が物語中の悪役という自覚はないのだ。

そのキャラを物語が必要としているのか、それともそのキャラがいることによって物語が生まれるのか。ここは区別しないといけない。

さて、主人公の話に戻そう。

そう言った「敵」とのやり取りの中で主人公は成長(変化)しないといけないわけだ。

どうしても譲れない、行動しなければならない理由」によって主人公は「敵」と分かちがたく結ばれる。

そして時間的リミットがさらに物語を前に推し進める。

そう。主人公には「敵」と戦う上でのタイムリミットを用いる作り方もあるのだ。

主人公は基本的には自分からは動かないから。

このくらいにしておこうか。

ではでは。

【小説に関する言説】3.キャラ造形(四)

キャラ造形のお手本

恐らくみんなが知らないであろうとあるキャラを中心に論を張っていこう。

 

具体例

そのキャラとは『水中騎士』(木城ゆきと)に登場する女騎士、ルリハーである。

みんな大好き女騎士。まあそれはさて置き、このキャラの作られ方が実に教科書的でなおかつその造形が作中で明らかにされているのだ。

ざっとキャラの情報を伝えておく。

彼女は二人の偉大な騎士を両親に持つ、騎士の駆け出しである。

まだまだ弱輩で未熟ではあるが、本人は既に一本筋の通った人格を有している。

その彼女なのだが、何がここで取り上げる理由なのか。

具体的に語る前にキャラの内面を語る上での三つの要素について語りたい。

この三つだ。

それは何か。

自己認識とは、自分で自分をこれこれこういう人間だと信じている認識の在り方のことである。

他己認識とは、他人が自分をこれこれこういう人間だと信じている認識の在り方のことである。

超自我認識とは、自分の顕在意識が把握できない自分の本当の望みのことである。本当はどうありたいかのことである。

 ルリハーはこの三つをまるで手引書のように開陳してみせるのだ。それもたった一話の中で。

彼女は本当に厳しく育てられた。騎士として。彼女もそれに応えようとした。愛されるために。

その心を覗いていた悪魔は言う。

この娘の望みは騎士として親に認められること、恐れていることは騎士になることに失敗し、親に見捨てられることだという。

しかし聡い猫は言う。そうではないと。

彼女の本当の望みは自分が騎士になれようがなれまいが関わりなく親に愛してもらうこと、そして本当に恐れていることは、自分に無償の愛を注いでくれなかった両親を心の底では憎んでいることを認めてしまうことだと。

これなのだ。

これこそがキャラ造形のお手本だ。

彼女は自分を屈託なく夢へと邁進する人間だと思っている。

しかし他者から見れば危うい存在に見える。

そして心の奥底には埋められない隙間を抱えている。

これが生きたキャラを作るということなんだ。

この三つの側面こそがキャラに生命力を与えるんだ。

 

失敗とは何か

では失敗とは何だろう。

ここまで読んでくれたならキャラ造形の上手さとはつまり人間観がどれだけ鋭いかであることがわかるだろう。

薄っぺらな人間観ではだめだ。

「人の本当の姿を描く」。

このために、ただ単に裏の顔を描こうとだけする人間がいる。

裏。それは本当に「本当の姿」なのだろうか。

例えば、いつもひどいことばかりしている人が、心の中では自分のことをいいやつだと思い込んでいる。

この場合その心の中の姿こそが本当の姿だと言えるか?

そうではないだろう。

それを捉えそこなう歪んだ浅ましい人間観では物語を動かすキャラクターなど作れるわけがない。

創作に必要なのは人間観なのだ。

ではでは。