北條カズマレの庵

自分のネットでの活動の拠点の一つです。自作の動画・自作の創作論などの解説を載せていきます。

プロジェクト『謝非道』概要

youtu.be

プロジェクト『謝非道』は、小説『謝非道』をより完璧なものに近づけるためのプロジェクトです。プロジェクトは以下の構成要素を持ちます。

 

小説家になろうカクヨム

https://ncode.syosetu.com/n8769em/

https://kakuyomu.jp/works/1177354054886029789

無料でお読みになりたい場合は、こちらがどなたでも簡単に利用できて都合がよいかと思われます。感想を書くことも簡単にできます。改稿無しの読みにくさがあります。

〇note

https://note.mu/sein_und_zeit/m/mec0f8f595d07

こちらでも無料公開しています。有料版の解説記事を追加予定です。

〇pixivFANBOX

www.pixiv.net

こちらでも無料で作品が見られるとともに、ドネイションが可能です。

kindle

作品を推敲し、完成後、追加予定です。

 

以上の四つを持ってプロジェクト『謝非道』とします。

何かご不明な点などあれば、

twitter.com

のアカウントの固定ツイートにお気軽にリプライください。

プロジェクト『謝非道』始動

はい。始動と銘打ってはおりますがまだ構想段階です。

どういうものを考えているかというと、

  • 第一稿の無料公開
  • 決定版の有料公開

……を柱とした販売戦略です。

これ自体は別に珍しいものではなく、なろうで商業出版、個人出版している多数の人々が採用しておりますフリーミアム形式のビジネスモデルです。(個人のkindle出版の先例として『オールユーニードイズ吉良』を念頭に置いております。)

自分もこれを採用します。具体的には、小説家になろうなどの無料小説投稿サイトでリライト前の作品を公開、kindleなどの有料サイトで推敲版を販売ということです。

これはかなり前から考えていた戦略ですが、さらに思いつきを得ました。

noteでの解説付きの販売です。第一稿をどうリライトしたか、という技術的話題に始まり、イスラームについての自分の理解程度を開陳したものも盛り込みたいです。

さらに第三の矢としてpixivfanboxによる挿絵依頼・翻訳依頼のための資金集めです。

この三つでもってプロジェクト『謝非道』と名付け、動いていきたいですね。

道のりは遠いなあ……笑

レジュメ H.30.5.16

物語(ナラティブ)
  と
物語(ストーリー)
  は
  違う

ナラティブは体験
ストーリーは情報

物語は何を語るか、何を語らないか、ではなく、何を強調するかである。

物語には現実は存在しない。読者の前提知識に全面的に依拠して想像を惹起するだけである。
エーコ「物語はすべてを語り尽くすことはできない。強調すべきことを強調するだけだ。空白を埋めるためには、読者の協力を要する……あらゆるテクストは、読者に自分の仕事の肩代わりを求める怠惰な機械なのだ」

語り=モデル作者が存在しない
   つまりかりそめにも意図が存在   しない
強調=モデル作者が存在する
   つまりかりそめにも意図が存在   する
 
モデル読者が「もっともその作者が意図した読み方に近似した読み方をすることに成功した」と目された時

メタモデル読者
報告価値、という概念

「語り」が報告する個々の出来事は報告価値という基準をクリアしていない

「強調」に基づく物語はある一つの調和を目指して個々の出来事が報告価値と言う基準に沿って整理選択され配列させられている。

ナラティブの定義(リースマンによる)
・特徴的な〈構造〉を持つ。
・〈時間の流れ〉と〈起こった出来事の報告〉を含む。
・語り手が聞き手に対して、出来事を〈再現〉してみせる(実際にあったのだと〈説得〉する)。
・聴衆の〈感情〉に働きかける。
・研究インタビューや治療的会話の中での〈長い語り〉である。
・〈ライフストーリー〉である。

非ナラティブ的ストーリーを夢想してみる。
=箇条書きのプロット
 ↓
 存在不能

ストーリーを内包しないナラティブ

「物語全体に結論を持つ因果関係の連なり」はストーリーか?ナラティブか?それともこの問いはナンセンスか?

千野帽子
「情報と体験は違う。ストーリーは、それだけでは情報ですが、ストーリーを表現・提示したナラティブは、それを読む人訊く人に体験をさせるということになります。」

人は物語る動物であり、語られる物語はすべて仮説である。

ウンベルト・エーコ
「テクストは読むものであり、利用するものではない。小説の森は万人のためのものであり、誰か一人が勝手に歩き回っていいものではない」

「テクストとは、読者に仕事の一部を任せたがる怠惰な機械なのです。読者がテクストについて疑問を抱いても、それを作者に尋ねるのは無意味なのです。ただし、読者は、作品が推奨する理想的な読み方(モデル作者の意図)について常に既に確認したモデル読者であることを心掛けなければなりません。」

「作者は、瓶に封じた手紙を海に投げ入れるように、テクストを世界に送り出す時、つまり、単一の宛先ではなく読者の共同体へとむけてテクストが生み出されるとき、作者は、自分の物語がモデル読者によってモデル作者意図通りに解釈されるのではなく、複雑な相互作用のストラテジーによって解釈されるのだと知っています」

「テクストは読むものであり、『使う』ものではありません。妄想の起爆剤としてテクストを使うという行為はだれもがやっていることですが、それは人前にさらけ出されるべきではありません。テクストを読む際には、ゲームのルールがいくつかあり、モデル読者とはそうしたルールに沿って遊ぶ方法を知っている人のことです。知ったうえで『道を外れる』のと、知らずに勝手気ままに歩くことは、まったく別の行為です。」

モデル読者とモデル作者
テクストに書かれている、「理想化された作者の意図=モデル作者意図」を正確に読み取ろうとすることで読者はモデル読者になる。

 

「語り」もまた強調の一側面を持つ。ある規範・制度の内部にとどまる限り、その規範・制度を強化糊塗する方向性の「強調」を発揮するからである。
どうしてそこから逃れるのにいちいち「天才的発想力」なんてものが必要になってくるか。

小説の分析
・報告価値に基づく情報の提供
・文体
・ナラティブ

・報告価値のある情報
非日常的インシデント

それは何か?=我々の世界との差異
      =その世界でも特異とさ       れる出来事
・文体
合う合わない
それ自体の芸術・娯楽性

・ナラティブ
それらを総合した追体験提供

・物語の濃淡
ストーリー

より情報羅列的
↑↓
より追体験

ナラティブ

  
慣れた階段を踏み外す
なぜ?
なぜ
と問うときには
すでに日常の階段を踏み外している

――高橋喜久晴

ムーミン谷になぜはない
日常の恒常性の既存がなぜ、を生む
なぜ、とは理由の希求であり、物語への渇望である。この世の理不尽の前に膝を屈してこそ、なぜ、は生まれる。
それは実存的な問いである。

笑い=日常の盤石性の再確認

・物語の駒としての登場人物
物語優位性→キャラクターの一貫性を放棄し、物語を進める推進剤としての役割しか持たせない。

モデル化されたキャラクターと作中キャラクターの齟齬が不快、キャラクターのモデル化がそもそも不可能である等の読者側の問題が出てくる

キャラクター優位性→読者が心中でモデル化したキャラクターの行動と作中キャラクターの一致、または選択肢の可能性の幅の中に納まっている物語(幅に収まるとは必ずしも読者の想像どおりにふるまうとは限らない。読者が考え付かず、なおかつ読者の心中でモデル化されたキャラクターから想像される選択肢の閾値内の選択肢を作中キャラクターが取ることを読者は受容し、しばしばそれはより価値ある刺激となる)

しかし、上記の一般論でもキャラとストーリーはどちらが優位か、という問いは解消されない

モデル化されたキャラクターのイメージを毀損しない範囲内でならキャラクターの側がストーリーからの要請にこたえてもいい。

 

〇つまりは、ストーリーが受容されるかどうかは、キャラクターが受容されるかどうかに換言されるのか。読者の心中でモデル化されたキャラクターへの共感こそが物語の本質なのか。だとするならストーリーとは何か。キャラクターの副産物なのか。

キャラクター∋ストーリー

少なくともストーリーはキャラクターの人生のタイムラインの一部である。

ストーリー=情報
ナラティブ=体験

ストーリー=シーンの羅列
ナラティブ=シーンの能動的連なり

シーンのあいだあいだに意味を持たせるのがキャラクター

(例
朝起きた、歯を磨いた、散歩に出かけた、犬を見た、家に帰ってきた、食事をした……

語り(小学生の作文かカウンセリングルームにしばしばある)
その次の段階がストーリーでありそのまた次の段階がナラティブである。


ゴールは道筋によってあらしめられる
道筋は旅人によってあらしめられる

体験性こそが最も重要な要素

キャラクターは遊園地の乗り物
ストーリーは風景
シーンはイベント
読者は客
ナラティブは乗り物、風景、イベントを通して得る体験

読者はキャラクターに乗ることで物語を追体験する。

乗る、とは、理解のことである。
理解とは、キャラのモデル化に読者が成功することである。(理解した結果、シーンとシーンの繋がりに物語性が発生し、意味の通るナラティブが創発される。)

キャラクターは常にストーリーが提供するシーンに対してリアクションをとり続ける。それを常時読者は摂取し、モデルをより精緻なものへと近づけていく。

作者もまた常にキャラクターのモデルをいじり続けているが、ここはやはり読者の心中のモデルと選択が一致するか、「予想は裏切り期待は裏切らない」ものでなければならない。

ではストーリーとは何なのか?

キャラクターのモデルの精緻化のためのプロセスである。
作者の中にコンプレックスにくみ上げられたモデルが、予測されないがしかし不自然でない選択肢を提示することで感動が生まれる。その一手以外は読者の中のモデルと作者の中のそれは、完全に一致していなければならない。

かなりキャラクター原理主義よりの話に帰着してしまった……。

ではストーリー寄りに話を進めると?

ストーリーが企図するメッセージ、感情励起、テーマ性の構築のためのコマがキャラクターである

実際はキャラクター主義とストーリー主義は交錯混交しながらナラティブを紡いでいく。

キャラクターが従属するのはストーリーではなくシチュエーション(シーンの前提条件)?

シチュエーション→世界観

ストーリーはどう生まれるのか
キャラクターはどう生まれるのか
ナラティブの終局においてそれらはどうなるのか

ストーリーはシーンの時系列順の羅列(回想を除く)、相互に筋の通った因果関係の一本の筋
キャラクター不在のストーリーは段取りである。
(例
恋人が死んだ。悲しみのあまり自殺した。

誰にでも納得のいく段取り的因果関係。理想化されたキャラクターが取りうる規範意識、時代従属的行動様式から一歩も出ない、というストーリー。そうではないイレギュラーな行動規範を内在化したキャラクターが不在だと、ストーリーはこうなるしかない。

恋人が死んだ。悲しみのあまりアイスホッケーを始めた。

キャラクター不在である限り意味不。しかしここにダイナミズムがある。キャラクターが十分にモデル化され、それに共感する限り、読者はここに違和感ではなくダイナミズムを感じる。

これを十全に開陳する、読むことでキャラクターのモデル化ができていくものがナラティブである。なぜそんなことをするのか?キャラクターのモデル化に成功した結果、シーンとシーンの繋がりに物語性が発生し、意味の通るナラティブが創発される。ナラティブはナラティブを創発するためにキャラクターの情報をモデル化可能な形で提供するメディアを構成要素として持つ。

〇私の物語づくりを分析しよう

まずシーンが思い浮かぶ(感動の再現、引き写し、それらの単純には元ネタに辿れない改変パターン)

そのシーンを演じるに足るキャラクターの想定。まだこの時点ではキャラクターは作者に内在していない。

ストーリーの構築。まず終わりと始まりのシーンを想起し、最初に浮かんだシーンの挿入し、つじつまの合う間のシーンを考える。この時点で段取り性が出ないように注意する必要がある。

最後に、そのストーリーをナラティブに昇華させることのできるキャラクターを考える。もちろん、考えることによってストーリーは改変されていく。ストーリーの改編とキャラの構築は互いにフィードバックし合う。

二月のこと

その日はカフェのイベントで、私もまた他の常連客やイベント目当ての一見さんに混じってゲストを囲んでいた。ゲストは芸人だった。そもそもこのイベントは科学に関する催しである。今回のテーマは「科学と笑い」。ゲストは、科学芸人。そういう触れ込みだった。イベントは和気あいあいと進んだ。芸人のくせにネタの披露が実演ではなく、Youtubeにあらかじめ上げられている動画をプロジェクタで流す方式だったのは解せないが、概ね成功だったと言える。「科学に興味を抱く最初のきっかけになればいい」。彼はそう言った。それはそれで素晴らしいのではあるが……。質問を求められたとき、私は発言することにした。
「娯楽の一回性、消費性、後に何ものらなくていい、その時楽しければいい、そういうのってホント……」
私は私の感覚で数舜「タメ」を作った後、こう言った。
「そういうの、ホント糞だと思ってて……」
わっはっは、と笑いが起こった。二十人足らずの聴衆も、ゲストも、みんなが笑ってくれた。私は満足を感じるが、納得いかない部分もあった。「なぜおまえも笑ってられるんだ?」そういう感覚は踏み消せないタバコのように心にくすぶった。お前、芸人じゃないのか?『火花』をちょうど読んだばかりだったから、芸人と言う存在には憧れに似た感覚を持っていたのだと思う。あまりにも笑いに身をささげたがゆえに、笑えない存在になってしまった登場人物。それくらいの阿呆さを、持っていてほしかった。決して、素人が起こした笑いのほうが大きかったのに、一緒になって笑ってられるような人間を想像していたのではなかったのだ。私はこのゲストの男に幻滅した。芸人という存在にも幻滅した。テレビに対して持っていた、本当にか細い最後の希望までもが、一緒に手放された。もう一つ、この男には我慢ならないところがあった。質問後の懇親会、酒のグラスを傾ける私の目の前で、カレーをバクバク食っているのであるが、これが実に不快なのだ。ステンレス製のスプーンを口に運ぶたびに、かしゅっ、かしゅっ、という音が聞こえる。何かと思えば、この男、スプーンに乗った飯を唇ではなく歯でこそぎ取って食っているのである。音の正体は歯と金属の擦れ合う音だった。かしゅっ、かしゅっ。響くたびに私の歯もうずいた。不快を通り越して、拷問ですらあった。今でも耳にこびりついて離れない、異音。スプーンでカレーを食うたびに思い出してしまう。翌日、私は百均で木のスプーンを買った。今でも時々歯の疼きを思い出す。

#魔女集会で会いましょう が流行っている

Twitterで、果てはInstagramでまで、流行を見せているハッシュタグ

#魔女集会で会いましょう。

これに関して私見を述べたい。

 

まず、観測された共通点として、

・拾われる孤児、もしくは魔女は、少なくとも最初の時点において、誰からも愛されない存在でなければならない
・魔女は物質・基礎教育面において孤児を充足させねばならない。孤児は精神的面において魔女を充足させねばならない。たとえ別離が定めでも。
・寿命の差による死別が存在する場合、魔女は大いに悲しまねばならない
魔女裁判魔女狩りには魔女は敗北しなければならない。それを免れる唯一の道は拾った孤児ないし動物に守られることによってである。
・魔女および成長後の拾われた少年には無数のパターンがあるが、拾われる前の少年が取りうるパターンは少ない(身寄りがない、いけにえとして魔女にささげられた、身体的ハンディキャップがある、等)。魔女に拾われる以外、幸福を得る道があってはならない。
・魔女に何らかの目的がある場合、拾われた少年はそれに異を唱えてはならない。魔女が悪事をするなら少年はともにそれをしなければならない。
・拾われた少年は成長した後、表面上はまだしも根本的な部分で魔女から精神的自立をしてはならない。魔女のほうは「子離れ」をしてもしなくてもよい。

がある。

これらを基本的に抑えておけば創作するうえで見る者の共感から外れることはないだろう。

 

もう少し分析してみる。

よく見られる言説として、

「このハッシュタグでみられる創作物は女の欲望と理想を端的に体現している」

というものがある。

どういうことかと言えば、

・年を取らない魔女という設定

・自分好みの理想の男性を育てたいという欲望の充足。

・血がつながらない疑似親子であるがゆえに恋愛関係も許される。

・そもそも魔女という存在が究極の女性性の発露ではないか

であるがゆえにあの創作物は女性の単純な欲望充足が見られるというのである。

これにはどうも違和感がある。

前時代、ロリキャラブームの折、「男性オタクは自分より弱いものを好む」とする言説がやたら流行ったのと同じ安易さを感じる。

何か…もう少し探ってみる必要があるだろう。

最後に、まとめて置いたメモを書いておく。

何か拾ってくれるならうれしい。

 

基本構造
・既存社会と切り離された無背景の子役
・不老、メンター、でも魔女狩りには弱い
 という属性を持った母親役
 
エモーション・コア
女の理想
→不老の自分と理想の息子との結婚
(ロリキャラを好むオタクの精神分析並みに胡散臭いか?)
 
基本イベント
・不老の母親役と寿命を持つ息子役との別離
魔女狩りで守り守られる立場が逆転する
 
疑似母子相姦の成立が一つのハッピーエンドだが、そのあとの別離は既定路線
 
ありえそうだけど見たことのない路線
→魔女が不老の呪いを解き、人間と同じ時間を歩み始める
→これがなぜないのか
 
発起者、九頭氏の提示した設定
『魔女が拾った男の子が成長して、魔女よりでかくなって(ごつくてむさくてがっしりしてて)魔女を全力で愛して守る男になる話』→このタグで好き勝手していい
 
 
孤児の拾われる前の設定のパターン
・身寄りがない
・いけにえとして魔女に捧げられた
・ハンディキャップ(目が見えない、口がきけない)がある。
 
例によって、単純にこれを転倒したパターンも存在する。(魔女がいけにえにされる、魔女にハンディキャップがある)
 
魔女の孤児を拾う前のパターン
・完全無欠の魔女(でも魔女狩りには負ける)
・疎外感を感じている魔女(人間なんて…)
・自分一人では解決できない問題を抱えており、成長した孤児がそれを解決してくれるパターン
 
成長後の孤児
・魔女と一緒に悪いことをする
魔女狩りから魔女を守る盾になる
孤児が立派に成長する
物質的充足の表象

 

【小説に関する言説】キャラ造形

キャラ造形のお手本

恐らくみんなが知らないであろうとあるキャラを中心に論を張っていこう。

 

具体例

そのキャラとは『水中騎士』(木城ゆきと)に登場する女騎士、ルリハーである。

みんな大好き女騎士。まあそれはさて置き、このキャラの作られ方が実に教科書的でなおかつその造形が作中で明らかにされているのだ。

ざっとキャラの情報を伝えておく。

彼女は二人の偉大な騎士を両親に持つ、騎士の駆け出しである。

まだまだ弱輩で未熟ではあるが、本人は既に一本筋の通った人格を有している。

その彼女なのだが、何がここで取り上げる理由なのか。

具体的に語る前にキャラの内面を語る上での三つの要素について語りたい。

この三つだ。

それは何か。

自己認識とは、自分で自分をこれこれこういう人間だと信じている認識の在り方のことである。

他己認識とは、他人が自分をこれこれこういう人間だと信じている認識の在り方のことである。

超自我認識とは、自分の顕在意識が把握できない自分の本当の望みのことである。本当はどうありたいかのことである。

 ルリハーはこの三つをまるで手引書のように開陳してみせるのだ。それもたった一話の中で。

彼女は本当に厳しく育てられた。騎士として。彼女もそれに応えようとした。愛されるために。

その心を覗いていた悪魔は言う。

この娘の望みは騎士として親に認められること、恐れていることは騎士になることに失敗し、親に見捨てられることだという。

しかし聡い猫は言う。そうではないと。

彼女の本当の望みは自分が騎士になれようがなれまいが関わりなく親に愛してもらうこと、そして本当に恐れていることは、自分に無償の愛を注いでくれなかった両親を心の底では憎んでいることを認めてしまうことだと。

これなのだ。

これこそがキャラ造形のお手本だ。

彼女は自分を屈託なく夢へと邁進する人間だと思っている。

しかし他者から見れば危うい存在に見える。

そして心の奥底には埋められない隙間を抱えている。

生きたキャラはこれら三つの側面から成り立っている。

 

うつ病について

f:id:Tangsten_animal:20170320170139j:plain

うつ病

自分が大鬱病エピソード(一般的に言われるうつ状態)に入った時には
よく調べたものだ。
それを還元したいと思う。
 

うつ病の分類

 
うつ(抑うつ気分)

失職や失恋、ストレスなど明確な理由が存在する
人間の自然な感情としての気分的落ち込み
数週間にわたって持続することは稀であり休養で自然に回復することがほとんど

うつ病(大うつ病エピソード)

激しく持続的な落ち込みを主な症状とし
ストレスをきっかけとすることも楽しい気分から一転して落ち込むこともある
つまり心理的な原因は必ずしも存在するわけではない
脳内分泌系の異常が原因であり
身体の不調も伴うことが多く最悪の場合には自殺を引き起こす
投薬治療と適切な休養さえあれば通常一年以内に治るが長期化するケースも
なお全人口の生涯有病率は三割であり再発率は五割と高い
遺伝により発病リスクが増大する

新型(擬態)うつ病
 
うつ病のような程度が激しく持続的な落ち込みと
一見似ているが原因や症状が異なるもの
統合失調症陰性症状や人前で
落ち込んで見せることによって気を引こうとする人格障害
単なる甘えなど様々な状態が総称してこう呼ばれる
うつ病の概念がメジャーになるにつれて
安易なうつ病の診断や誤診・素人の誤った判断などが増えたことが背景にある
甘えであれば治療は必要がないがそうでない場合は専門的な対応が必要
それらの原因とは別にこの病気を単体の病気と認める立場もある
これを単体の病気として認める場合の専門の診断基準が存在する
 
 
今一般的に「うつ病」にくくられてしまう、うつと言われるものは
こういう三つのモノに分類される。
本来、これらは決して混同してはならない。
こちらの動画を見てほしい。自作である。
 

www.nicovideo.jp

 

ここにあるようにうつ病であることの同定は非常な慎重さを要する。

「うつ」を日常語にしてはならない。

「うつうつとした気分」と「うつ病・重篤なうつ状態」は似て非なるものなのだ。

いや、落ち込みの程度においてまったく似ているものですらない。

 そして、うつ病でないものをうつ病にまとめてしまう「擬態うつ病問題」
これに関してはこの記事でまとめて取り扱うわけにもいかない重大さであるから、
また後日改めて言及したい。
ではリソースである林先生のサイトを載せて終わりたい。