『タコピーの原罪』の完結を迎えて、『ルックバック』について書いたことを思い出した
もちろんどちらも名作だ。技術点がすごく高い名作だ。パッションもある。どうしても、どうしても創作にこそ人を救う力が、何より自分を救う力があるんだ、と力強く主張するこれらの作品。大好きではある。しかし、思うところもある。以下にそれをまとめた。過去ツイートの単純な転載にちょっと加筆したり少しだけ再構成したりしたものであるから、少し前後のつながりがおかしかったりするかもしれないし、繰り返している部分もあるかもしれない。
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【2021年某日のツイート】
創作をする上で表現規制に原理主義的に反対している人の中で、大きな勢力を占めるのはフィクトセクシャル当事者ではなく、創作を自己表現やコミュニケーションとして用いる「創作を自尊心の中心に置く人」ではないのか。どちらかというとむしろアセクシャルか、セクシャリティを創作に持ち込まない人。もしくは、セクシャリティを創作に持ち込むが、現実世界のまた別のセクシャリティを持つ人。
そのような人にとって、創作は「あなたこそがわたし、わたしこそがあなた」という世界観を維持構築するための唯一の手段であって、創作を取り上げられる、あるいは一部であっても条件が課される(表現規制される)ことは、世界そのものの崩壊を意味するわけだ。原理主義的に反対するしかないのでは?
フィクトセクシャルの人にとって、創作は性愛の対象かもしれないが、オタクにとって、創作は世界そのものなのだ。フィクトセクシャルや現実性愛を欲望として持つ人々は、「今後一生セックスしちゃダメだし、写真や絵に欲情してもダメです」と言われた時に、神に祈ることで同等の精神的快楽を得る道が残されているかもしれない。しかし、オタクにとって、創作は神(世界)との唯一の交信方法なのである。価値が違う。「一生セックスしちゃダメ」と「一生自分の意志を明らかにしてもダメだしコミュニケーションしてもダメ」って言われるのじゃ、レベル違くね? って話である。
「同性愛は病気です!治療しなきゃ!」が医学的見解だった時代があった。そういう時代は過ぎ去った。よろしい。結構なことだ。「創作物に欲情するなんて病気です!治療しなきゃ!」そういう時代も過ぎ去るだろう。よろしい。結構なことだ。じゃあ「創作しなきゃ死んでしまいます!」は病気か?
ぶっちゃけて言おう。俺は、正直、「程度によっては病的であると定義することも可能だろう」と思う。少なくとも、ルックバックの統合失調症を安易に想起させうる描写に苦言を呈しただけの人を攻撃した人は、病的な状態にあると思う。そりゃあね、ルックバックの描写自体を変更するのは、完全に表現規制だから、そこで妥協できないのは彼らの創作=世界であるという世界観からすると理解できるし俺個人は表現の変更までは求めないし、その点で某精神科医の先生はちょっと配慮が足りなかったと思う。
でも「統合失調症を想起させるのは良くないんじゃ?」程度の意見を表明した人まで晒し上げるのは完全にやりすぎだし、そこには創作を自尊心のヨスガとする人に病的な点を見出してもいいと思う。……ちなみにここでは完全にフィクトセクシャル者は部外者だ。フィクトセクシャルの立場からは彼らは理解できん。
もう少し話を広げよう。創作を性の対象とするのではなく、自尊心の源泉とする人がいる。自尊心の源泉という概念……それは、宗教でも、お金を稼ぐことでも、国家に奉仕することでも、なんでもいい。全ての人には自尊心のヨスガを何にするのか選ぶ権利がある。表現の自由ならぬ、自尊心の自由という概念。
自尊心の源泉はその人にとって世界観の源泉そのものでもあるから、それを攻撃された時の反応は過敏になりがちだ。しかし、反撃も理性でコントロールしないとやり過ぎになる。ここに病的な点を見出してもいいと思う。そしてそれとは別に、大きな問題を感じる
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【別の日のツイート転載】
『ルックバック』の時、統合失調症がどうたらって指摘しただけで、オタクたちがフェミニストに向けてた敵意の何分の一かがこっちに向いた。怖かったな。その時理解したよ。「怪物と戦うものは自身が怪物とならないように気をつけろ」という教訓の意味と、その虚しい結末を。フェミニストの人は多分理解してないか、理解したやつから消えてくから理解してないように見えるかもしれんけど、Twitterでオタクに楯突くのってメチャクチャ怖いことだし勇気ある行為だと思うぜ。オタクは間違いなく権力者だし、参議院議員にも利益代表者がいる立派な「権力を持つ社団」だ。
オタクを再定義してみようか。「非現実の創作物を自己の存在証明の大きな要素として認識している人」のこととしよう。だからこそ表現規制は全面戦争のトリガーだ。ここではフィクトセクシャル者の権利を保護しようと運動している人の知見が大いに役に立つ。ただし一般的オタクは創作物を性的欲望の対象としているわけではなく、「生きるヨスガ」として大切にしているのだ。性的欲望はむしろ客観視しすぎていて相対化させすぎていて…と言うと脇道にそれすぎる。とにかく、オタクは「創作物を生きるヨスガにしている人」という結論で。
この「創作物ヨスガ人」をどう取り扱うかが問題だ。Netflix『永遠に12歳!』において、アメリカの片田舎の離婚家庭のとりわけひどい生活を送っているわけでもない極々フツーの12歳の女の子がどうやって自分の作ったオハナシを通して自分の心に折り合いをつけていくかが描かれたが、その結末は? 実はこの作品、不人気でキャンセルされてしまったらしく、結末は定まらないが、どうやら映画を撮っている友人に出会い、その子に創作の才能を認められることでハリウッドまで行って創作者として成功して道が幸せになる!という結論を結末として描くのではないか、という予想があったようだ。
だがそれは本当に唯一の幸福の道なのだろうか。幼い頃から創作をしていてそれに救われてきました、だから大人になったら創作の道に進んで恩を返すんだ、という道が本当に唯一の答えだと言うのか?……彼女はきっと、ちょっと創作の才能があるアメリカの片田舎のごくフツーなおばさんになるだろう。ひょっとしたらトランプ支持者になるかもしれない。でもそれの何が問題なのだ?Netflixがそれを受け入れられるかまでは知らんが…。創作物に救われました、自分の創作の才能に救われました、これでやっと普通の人生を肯定できます、というラストで何が悪いんだ?どうして創作に囚われないといけない?「自分は創作に救われました!今では普通にサラリーマンやってます!」と「自分は創作に救われました!今では漫画家やってます!」という二つを分けるものとはなんだ?後者が賛美されがちだが……。「そんなん創作に囚われすぎ!創作に人生をかける価値なんてないよ!」という言葉がなぜ聞こえてこない?
創作は、素晴らしい。そうだ。創作は、人の心を救う。そうだ。それは正しい。賛美されて然るべき行為だ。しかし、じゃあそれは何と比べた時にどれくらい素晴らしいの?となる。貧困対策やいじめ対策よりどれくらい? 表現規制に対抗する上で何を犠牲にしてもいいの? 議論は尽くされるべきだ。
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去年はこんなことを考えていた。創作によって救われる。いい。とても良い。とても良いストーリーだ。作品によって、キャラクターによって、物語によって、救われる。素晴らしいことだと。じゃあしかし、それは何と比べてどれくらい素晴らしいのか? そこなんだよな、自分の疑問は。タコピーの原罪もまた、創作の肯定を絶対的なエンディングとしていた。そこに冷や水を浴びせるだけになるつもりはないが……。
異化効果とは何か
H.31.4.21用レジュメ
【レジュメ】これからの世の中を支配するコミュニティの在り方について
「合(現段階では界隈と読み替えても可)」
リアルおよびネットでつながる緩い個人の連合
〇存立条件
・代替不可能なアトラクター(例えばイケハヤ、えらてん)
(もしかしたらラファエルは仮面を継承することで代替可能かもしれなかった。)
※アトラクター(引き付ける者)とは、「合」の関係ネットワークの中心となり、新たに人間を引き寄せ関係性を創出していく魅力ある人間のことである。
・アトラクターを中心とする個人同士のネットワーク
・リアルの場とネットワークの場、どちらも持つ(オンラインオフラインどちらでも影響力を行使できる)
〇特徴
・接続する人間(所属する人間ではなく、こういう言い方がされる)には、忠誠心ではなく、興味を持ち続けることが要求される。
・ネットという遠距離関係性と、リアルという近距離関係性を持ち、両者はかなり異なる。
・明確な内部ルールを持たない(システムでは動かない)、義理や友情など、非合理的な関係性でつながる。
・組織では「ない」
・出入が自由(所属は必須でない)
・特定の個人は、アトラクターとの距離が近いほど、「合」全体への影響力を高める。
・ある目的が出現するたびに、「合」がアクセス可能なネットワークから人材を引っ張ってくる。
・必ずしも個人個人は明確な目的や所属意識や「合」全体の大戦略への賛成意識を持たなくてもいい。
・相互扶助性を持つことを目指す。
〇十分に発展した「合」が備えているもの
・相互扶助性
・アトラクター代替性(これは本当に可能かどうか不明)
・目的即応性(ある目的が生じたときに滞りなくそれに適した人材を用いて計画をくみ上げられる)
〇「合」が備えることができるもの
・ネットワーク内での非定型婚姻制度
※まだ十分に発展していない「合」を「界隈」と呼ぶ
※「界隈」の段階で相互扶助性など、全体に負担を強いる要素にコミットすると瓦解するか、発展が止まる。
※歴史的には地縁血縁集団と似る。
H.30.07.07 レジュメ
レジュメ H.30.5.16
物語(ナラティブ)
と
物語(ストーリー)
は
違う
ナラティブは体験
ストーリーは情報
物語は何を語るか、何を語らないか、ではなく、何を強調するかである。
物語には現実は存在しない。読者の前提知識に全面的に依拠して想像を惹起するだけである。
エーコ「物語はすべてを語り尽くすことはできない。強調すべきことを強調するだけだ。空白を埋めるためには、読者の協力を要する……あらゆるテクストは、読者に自分の仕事の肩代わりを求める怠惰な機械なのだ」
語り=モデル作者が存在しない
つまりかりそめにも意図が存在 しない
強調=モデル作者が存在する
つまりかりそめにも意図が存在 する
モデル読者が「もっともその作者が意図した読み方に近似した読み方をすることに成功した」と目された時
メタモデル読者
報告価値、という概念
「語り」が報告する個々の出来事は報告価値という基準をクリアしていない
「強調」に基づく物語はある一つの調和を目指して個々の出来事が報告価値と言う基準に沿って整理選択され配列させられている。
ナラティブの定義(リースマンによる)
・特徴的な〈構造〉を持つ。
・〈時間の流れ〉と〈起こった出来事の報告〉を含む。
・語り手が聞き手に対して、出来事を〈再現〉してみせる(実際にあったのだと〈説得〉する)。
・聴衆の〈感情〉に働きかける。
・研究インタビューや治療的会話の中での〈長い語り〉である。
・〈ライフストーリー〉である。
非ナラティブ的ストーリーを夢想してみる。
=箇条書きのプロット
↓
存在不能?
ストーリーを内包しないナラティブ
「物語全体に結論を持つ因果関係の連なり」はストーリーか?ナラティブか?それともこの問いはナンセンスか?
千野帽子
「情報と体験は違う。ストーリーは、それだけでは情報ですが、ストーリーを表現・提示したナラティブは、それを読む人訊く人に体験をさせるということになります。」
人は物語る動物であり、語られる物語はすべて仮説である。
ウンベルト・エーコ
「テクストは読むものであり、利用するものではない。小説の森は万人のためのものであり、誰か一人が勝手に歩き回っていいものではない」
「テクストとは、読者に仕事の一部を任せたがる怠惰な機械なのです。読者がテクストについて疑問を抱いても、それを作者に尋ねるのは無意味なのです。ただし、読者は、作品が推奨する理想的な読み方(モデル作者の意図)について常に既に確認したモデル読者であることを心掛けなければなりません。」
「作者は、瓶に封じた手紙を海に投げ入れるように、テクストを世界に送り出す時、つまり、単一の宛先ではなく読者の共同体へとむけてテクストが生み出されるとき、作者は、自分の物語がモデル読者によってモデル作者意図通りに解釈されるのではなく、複雑な相互作用のストラテジーによって解釈されるのだと知っています」
「テクストは読むものであり、『使う』ものではありません。妄想の起爆剤としてテクストを使うという行為はだれもがやっていることですが、それは人前にさらけ出されるべきではありません。テクストを読む際には、ゲームのルールがいくつかあり、モデル読者とはそうしたルールに沿って遊ぶ方法を知っている人のことです。知ったうえで『道を外れる』のと、知らずに勝手気ままに歩くことは、まったく別の行為です。」
モデル読者とモデル作者
テクストに書かれている、「理想化された作者の意図=モデル作者意図」を正確に読み取ろうとすることで読者はモデル読者になる。
「語り」もまた強調の一側面を持つ。ある規範・制度の内部にとどまる限り、その規範・制度を強化糊塗する方向性の「強調」を発揮するからである。
どうしてそこから逃れるのにいちいち「天才的発想力」なんてものが必要になってくるか。
小説の分析
・報告価値に基づく情報の提供
・文体
・ナラティブ
・報告価値のある情報
非日常的インシデント
↓
それは何か?=我々の世界との差異
=その世界でも特異とさ れる出来事
・文体
合う合わない
それ自体の芸術・娯楽性
・ナラティブ
それらを総合した追体験提供
・物語の濃淡
ストーリー
↑
より情報羅列的
↑↓
より追体験的
↓
ナラティブ
慣れた階段を踏み外す
なぜ?
なぜ
と問うときには
すでに日常の階段を踏み外している
――高橋喜久晴
ムーミン谷になぜはない
日常の恒常性の既存がなぜ、を生む
なぜ、とは理由の希求であり、物語への渇望である。この世の理不尽の前に膝を屈してこそ、なぜ、は生まれる。
それは実存的な問いである。
笑い=日常の盤石性の再確認
・物語の駒としての登場人物
物語優位性→キャラクターの一貫性を放棄し、物語を進める推進剤としての役割しか持たせない。
↓
モデル化されたキャラクターと作中キャラクターの齟齬が不快、キャラクターのモデル化がそもそも不可能である等の読者側の問題が出てくる
キャラクター優位性→読者が心中でモデル化したキャラクターの行動と作中キャラクターの一致、または選択肢の可能性の幅の中に納まっている物語(幅に収まるとは必ずしも読者の想像どおりにふるまうとは限らない。読者が考え付かず、なおかつ読者の心中でモデル化されたキャラクターから想像される選択肢の閾値内の選択肢を作中キャラクターが取ることを読者は受容し、しばしばそれはより価値ある刺激となる)
しかし、上記の一般論でもキャラとストーリーはどちらが優位か、という問いは解消されない
モデル化されたキャラクターのイメージを毀損しない範囲内でならキャラクターの側がストーリーからの要請にこたえてもいい。
〇つまりは、ストーリーが受容されるかどうかは、キャラクターが受容されるかどうかに換言されるのか。読者の心中でモデル化されたキャラクターへの共感こそが物語の本質なのか。だとするならストーリーとは何か。キャラクターの副産物なのか。
キャラクター∋ストーリー
少なくともストーリーはキャラクターの人生のタイムラインの一部である。
ストーリー=情報
ナラティブ=体験
ストーリー=シーンの羅列
ナラティブ=シーンの能動的連なり
シーンのあいだあいだに意味を持たせるのがキャラクター
(例
朝起きた、歯を磨いた、散歩に出かけた、犬を見た、家に帰ってきた、食事をした……
↓
語り(小学生の作文かカウンセリングルームにしばしばある)
その次の段階がストーリーでありそのまた次の段階がナラティブである。
ゴールは道筋によってあらしめられる
道筋は旅人によってあらしめられる
↓
体験性こそが最も重要な要素
キャラクターは遊園地の乗り物
ストーリーは風景
シーンはイベント
読者は客
ナラティブは乗り物、風景、イベントを通して得る体験
読者はキャラクターに乗ることで物語を追体験する。
乗る、とは、理解のことである。
理解とは、キャラのモデル化に読者が成功することである。(理解した結果、シーンとシーンの繋がりに物語性が発生し、意味の通るナラティブが創発される。)
キャラクターは常にストーリーが提供するシーンに対してリアクションをとり続ける。それを常時読者は摂取し、モデルをより精緻なものへと近づけていく。
作者もまた常にキャラクターのモデルをいじり続けているが、ここはやはり読者の心中のモデルと選択が一致するか、「予想は裏切り期待は裏切らない」ものでなければならない。
ではストーリーとは何なのか?
キャラクターのモデルの精緻化のためのプロセスである。
作者の中にコンプレックスにくみ上げられたモデルが、予測されないがしかし不自然でない選択肢を提示することで感動が生まれる。その一手以外は読者の中のモデルと作者の中のそれは、完全に一致していなければならない。
かなりキャラクター原理主義よりの話に帰着してしまった……。
ではストーリー寄りに話を進めると?
ストーリーが企図するメッセージ、感情励起、テーマ性の構築のためのコマがキャラクターである
実際はキャラクター主義とストーリー主義は交錯混交しながらナラティブを紡いでいく。
キャラクターが従属するのはストーリーではなくシチュエーション(シーンの前提条件)?
シチュエーション→世界観
ストーリーはどう生まれるのか
キャラクターはどう生まれるのか
ナラティブの終局においてそれらはどうなるのか
ストーリーはシーンの時系列順の羅列(回想を除く)、相互に筋の通った因果関係の一本の筋
キャラクター不在のストーリーは段取りである。
(例
恋人が死んだ。悲しみのあまり自殺した。
↓
誰にでも納得のいく段取り的因果関係。理想化されたキャラクターが取りうる規範意識、時代従属的行動様式から一歩も出ない、というストーリー。そうではないイレギュラーな行動規範を内在化したキャラクターが不在だと、ストーリーはこうなるしかない。
恋人が死んだ。悲しみのあまりアイスホッケーを始めた。
↓
キャラクター不在である限り意味不。しかしここにダイナミズムがある。キャラクターが十分にモデル化され、それに共感する限り、読者はここに違和感ではなくダイナミズムを感じる。
これを十全に開陳する、読むことでキャラクターのモデル化ができていくものがナラティブである。なぜそんなことをするのか?キャラクターのモデル化に成功した結果、シーンとシーンの繋がりに物語性が発生し、意味の通るナラティブが創発される。ナラティブはナラティブを創発するためにキャラクターの情報をモデル化可能な形で提供するメディアを構成要素として持つ。
〇私の物語づくりを分析しよう
まずシーンが思い浮かぶ(感動の再現、引き写し、それらの単純には元ネタに辿れない改変パターン)
↓
そのシーンを演じるに足るキャラクターの想定。まだこの時点ではキャラクターは作者に内在していない。
↓
ストーリーの構築。まず終わりと始まりのシーンを想起し、最初に浮かんだシーンの挿入し、つじつまの合う間のシーンを考える。この時点で段取り性が出ないように注意する必要がある。
↓
最後に、そのストーリーをナラティブに昇華させることのできるキャラクターを考える。もちろん、考えることによってストーリーは改変されていく。ストーリーの改編とキャラの構築は互いにフィードバックし合う。
#魔女集会で会いましょう が流行っている
Twitterで、果てはInstagramでまで、流行を見せているハッシュタグ、
#魔女集会で会いましょう。
これに関して私見を述べたい。
まず、観測された共通点として、
・拾われる孤児、もしくは魔女は、少なくとも最初の時点において、誰からも愛されない存在でなければならない
・魔女は物質・基礎教育面において孤児を充足させねばならない。孤児は精神的面において魔女を充足させねばならない。たとえ別離が定めでも。
・寿命の差による死別が存在する場合、魔女は大いに悲しまねばならない
・魔女裁判、魔女狩りには魔女は敗北しなければならない。それを免れる唯一の道は拾った孤児ないし動物に守られることによってである。
・魔女および成長後の拾われた少年には無数のパターンがあるが、拾われる前の少年が取りうるパターンは少ない(身寄りがない、いけにえとして魔女にささげられた、身体的ハンディキャップがある、等)。魔女に拾われる以外、幸福を得る道があってはならない。
・魔女に何らかの目的がある場合、拾われた少年はそれに異を唱えてはならない。魔女が悪事をするなら少年はともにそれをしなければならない。
・拾われた少年は成長した後、表面上はまだしも根本的な部分で魔女から精神的自立をしてはならない。魔女のほうは「子離れ」をしてもしなくてもよい。
がある。
これらを基本的に抑えておけば創作するうえで見る者の共感から外れることはないだろう。
もう少し分析してみる。
よく見られる言説として、
「このハッシュタグでみられる創作物は女の欲望と理想を端的に体現している」
というものがある。
どういうことかと言えば、
・年を取らない魔女という設定
・自分好みの理想の男性を育てたいという欲望の充足。
・血がつながらない疑似親子であるがゆえに恋愛関係も許される。
・そもそも魔女という存在が究極の女性性の発露ではないか
であるがゆえにあの創作物は女性の単純な欲望充足が見られるというのである。
これにはどうも違和感がある。
前時代、ロリキャラブームの折、「男性オタクは自分より弱いものを好む」とする言説がやたら流行ったのと同じ安易さを感じる。
何か…もう少し探ってみる必要があるだろう。
最後に、まとめて置いたメモを書いておく。
何か拾ってくれるならうれしい。