読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

北條カズマレの庵

自分のネットでの活動の拠点です。自作の動画・自作の創作論などの解説を載せていきます。

【小説に関する言説】3.キャラ造形(四)

キャラ造形のお手本

恐らくみんなが知らないであろうとあるキャラを中心に論を張っていこう。

 

具体例

そのキャラとは『水中騎士』(木城ゆきと)に登場する女騎士、ルリハーである。

みんな大好き女騎士。まあそれはさて置き、このキャラの作られ方が実に教科書的でなおかつその造形が作中で明らかにされているのだ。

ざっとキャラの情報を伝えておく。

彼女は二人の偉大な騎士を両親に持つ、騎士の駆け出しである。

まだまだ弱輩で未熟ではあるが、本人は既に一本筋の通った人格を有している。

その彼女なのだが、何がここで取り上げる理由なのか。

具体的に語る前にキャラの内面を語る上での三つの要素について語りたい。

この三つだ。

それは何か。

自己認識とは、自分で自分をこれこれこういう人間だと信じている認識の在り方のことである。

他己認識とは、他人が自分をこれこれこういう人間だと信じている認識の在り方のことである。

超自我認識とは、自分の顕在意識が把握できない自分の本当の望みのことである。本当はどうありたいかのことである。

 ルリハーはこの三つをまるで手引書のように開陳してみせるのだ。それもたった一話の中で。

彼女は本当に厳しく育てられた。騎士として。彼女もそれに応えようとした。愛されるために。

その心を覗いていた悪魔は言う。

この娘の望みは騎士として親に認められること、恐れていることは騎士になることに失敗し、親に見捨てられることだという。

しかし聡い猫は言う。そうではないと。

彼女の本当の望みは自分が騎士になれようがなれまいが関わりなく親に愛してもらうこと、そして本当に恐れていることは、自分に無償の愛を注いでくれなかった両親を心の底では憎んでいることを認めてしまうことだと。

これなのだ。

これこそがキャラ造形のお手本だ。

彼女は自分を屈託なく夢へと邁進する人間だと思っている。

しかし他者から見れば危うい存在に見える。

そして心の奥底には埋められない隙間を抱えている。

これが生きたキャラを作るということなんだ。

この三つの側面こそがキャラに生命力を与えるんだ。

 

失敗とは何か

では失敗とは何だろう。

ここまで読んでくれたならキャラ造形の上手さとはつまり人間観がどれだけ鋭いかであることがわかるだろう。

薄っぺらな人間観ではだめだ。

「人の本当の姿を描く」。

このために、ただ単に裏の顔を描こうとだけする人間がいる。

裏。それは本当に「本当の姿」なのだろうか。

例えば、いつもひどいことばかりしている人が、心の中では自分のことをいいやつだと思い込んでいる。

この場合その心の中の姿こそが本当の姿だと言えるか?

そうではないだろう。

それを捉えそこなう歪んだ浅ましい人間観では物語を動かすキャラクターなど作れるわけがない。

創作に必要なのは人間観なのだ。

ではでは。

【小説に関する言説】3.キャラ造形(三)

もっともっと具体的に

話をより詳細に、ハウツーの部分を掘り下げて行こう。

 

キャラの履歴書

 はい、じゃあ実際にキャラを作りましょうという段だ。

しかしまだどう作ればいいかわからないことだろう。

まずは履歴書だ。人物の来歴だ。

それもどう書けばいいかわからない?

ならまずご自分のそれを書いてみたらどうか。

もちろん面接先に出すようなものであってはならない。

今の自分の人格を形作っていると思われるすべてを書き出すのだ。

良かったこと、楽しかったこと、頑張ったこと。

恥ずかしかったこと、忘れたいこと、思い出すのもつらいこと。

自分以外の場所からキャラを取って来る力がまだ弱いなら、こうするしかない。

さて、そんな、自己を使ったものでも、使わなかったものでも、とにかく履歴書ができました、と。

次だ。果たしてその履歴書、役に立つと思うか?

そうではないのだ。まだキャラ造形の役には立たない。

そのキャラクターが自分の履歴一つ一つに対してどう総括し、また総括できていないかを把握するのだ。

忘れたい出来事があるなら、目をそらしているのか、完全に無意識の中に閉じ込めてしまっているのか、克服しているのか、そこを考えねば。

キャラを生むための履歴書とはそういうモノだ。

 

キャラの細かな行動・言動

これだけすればまあきっともう君の頭の中には確固たる人格が存在しているだろう。

しかしまだ「動いて」はいないはずだ。

ボーンだけが完成したポリゴンモデルのように。

キャラには「動き」が必要だ。

そのためにはどうするか。こういうやり方を使う、口調や仕草でキャラ付けをするのだ。

これはライトノベルや漫画などが最も得意とするところのはずだ。

語尾一つとっても書き分けができる。前髪かき上げる仕草一つとっても。

挨拶がハグであるとか、特定の言葉を呟くとか、なぜか英単語を会話に混ぜるとか、この言葉だけは絶対に許せないとか。

それさえあれば特に外見の描写は必要ないかもしれない。

髪の長さ、背の高さ、胸の大きさ、スレンダーかぽっちゃりか。

それだけでいいのだ。

気を付けてほしいのは、抽象的な設定をしないということだ。

このキャラは、「怒りっぽい」。

なるほど、そうか、うん。しかしそこからは何も浮かばない。

作品が描くことができるキャラの人格は結局リアクションなのだ。

リアクションとは何か。この場合、状況の中でのそのキャラのリアクションのことを言う。(同語反復ですまない)

それは常に具体性を伴っていないといけないのだ。

「怒りっぽい」のなら「どんな時に、あるいは何をされると」の解説が常に付属していないといけない。

人格はある状況の中での反応。忘れないでほしい。

そう、リアクションだ。重要なのはそれだ。細かい部分。肝心なセリフ、肝心な場面。

そういう状況でそのキャラ特有のリアクションができなかった時、全ては御破算になってしまう。

積み上げてきたキャラクター性が崩壊してしまうのだ。

ある状況の中で、そのキャラがどういう風に反応するか。それがキャラの人格そのものであり、ときにこれまでに書かれた描写にそって、作者より受け手の方が的確にキャラのリアクションを想定することができることもあるのだ。

それが二次創作が成り立つ主要因だ。

次はとあるキャラ(知っている人は極端に少ないと思う)を取り上げてキャラ造形を説明する。

ではでは。

【小説に関する言説】3.キャラ造形(二)

キャラの作り方

今回はキャラクターの造形について具体的な方法を述べていく。

 

キャラ造形の基本

 ではいよいよキャラクターを作って行こう。

キャラクターを作るために始めに考えるべきことは何か?

それは問うことである。そもそも考えることの発起点は問うことであるから。

とても簡単な問いから始めるのだ。

「そのキャラにはどんな場所が一番ふさわしい?初登場場所は?」

「そのキャラは自分のことをどう思っている?他人にはどう思われている?」

「そのキャラの現在の不満と、本当はどうだったら満足したか?」

等だ。もちろん身長体格髪型などは決めたうえで、だ。キャラの外見は内面を決めたうえでフィードバックしてもいい。

受け手が思い浮かべるべき、内面にふさわしい姿かたちというモノがあるから。

ところで、せっかく決めたキャラの設定であるが、作品内では事細かに描写しない方がいい。

作品内で膨大な設定すべてを語れるものではないからだ。しかし「ちゃんと設定している」という気配は残せ。

それについてはまた別の記事で解説する。

中心となるキャラから作者にとって好ましい特性を取り去ってしまうの一つの手、いや基本だ。

そうでないとすぐにいわゆるメアリー・スーになってしまうし、なによりそのキャラが作者の主張をどんどん語り始めて物語が一気に陳腐になるという危険がある。

メインのキャラには何かが欠けていなければならないのだ。そうでなければそもそも、それを回復しようという強い動機付け、目的が存在しなくなってしまうではないか。

最後に、細かいことだが、キャラクターに同じ音で始まる名前を付けないようにするべし。

他の造形部分はいかに似ていようが(限度はあるが)構わないが、名前が似ているのは何らかの意図がある場合以外避けるべきである。

 

キャラの生活を描く

キャラクターが実際に生活しているところを作者も受け手も思い描けるようにしよう。

なぜ二次創作は日常系が多いのか?キャラの生活にみんな強い関心を持っているからではないのか?

ではそんな生活の中心は何か?職業である。

みんなキャラの職業が気になるのだ。ここがリアルでないとキャラを好いてくれなくなる。

そしてリアルにするためには書き手が実際についている職業をメインに描くのが一番いいのだ。

生活をキチンと描くことは受け手にリアリティを感じさせるだけではなく、書き手が実際に書いている時の助けにもなる。

そのキャラの仕事、人間関係、私生活からストーリーを前に進める細かいヒントがいくらでも拾えるのだから。

具体的な、「生活を想像させるための問い」を欠かしてはならない。

「いつもの食事はどんなか?」

「生活の糧はどうやって得ているのだ?」

「物語の冒頭が始まる一週間前に何をしていた?」

これに答えることによって人物描写は進んでいくのだから。

 

今日はこのくらいにしておこうか。

ではでは

【小説に関する言説】3.キャラ造形(一)

キャラ造りの基本

物語においてはキャラが全ての発起点であるという言い方ができる。

勿論お話を先に作る人もいるだろう。トリックを先に作る人もいるだろう。メッセージから降ろしてくる人もいるだろう。既にあるお話を組み替えて作る人もいるだろう。

しかし「キャラの人格から生まれる行動の記録」こそが最も普遍的な物語の在り方なのだ。

お話はキャラの人格に従属しているとも言える。

逆はない。

お話の展開が進むたびにキャラの人格がコロコロ変わってはならないのだ。

お話はキャラから生まれる。

キャラが本当に生きて存在していると思えば読者はまるで別のお話すら想像することができるのだ。

それが二次創作だ。

この基本を忘れてはならない。 

 

キャラと物語の関係

「生きている」キャラからこそ実感を伴った物語が生まれる。

では「生きている」とは何か?

厚みのことである。奥行きのことである。

最初の印象は単なる嫌な奴、小汚いやつ、卑怯な奴。

そんなキャラが、内面や過去や意外な一面を露わにするうちにだんだんと身近な人物のように、実際にいそうな、いたら楽しいだろうな(友達になりたいかは別として)と思えるようになったら、そのキャラは生き始めるのだ。

そういうキャラは忘れられない。

キャラが忘れられないならその行動の記録であるところの物語もまた忘れられなくなる。

大成功というわけだ。

では具体的にどうすればそんなキャラが作れるか?

正解を語るのは次回に持ち越そう。

【小説に関する言説】2.テーマ

テーマの取扱い方

テーマの主張が強すぎるあまり、まるでプロパガンダか何かのようになってしまった作品が存在する。

作者の主張を無加工でそのまま登場人物に代弁させ、作品内でそれが拍手喝采され、最終的に勝利を収める。

それはあまりに願望充足的すぎて白けるのだ。

読者にテーマを説教の形で垂れ流しているわけだな、そういう作品は。

作者にだって確かに伝えたいことはあるだろう。しかしそれは決して生のまま紙面に、画面に、吐きつけていいものではないのだ。

テーマが高級であればあるほど、表現は低級で無ければならない。

 

より具体的に

展開でもってテーマを描こうとするとご都合主義になる。

つまり展開はテーマの表現媒体としては不適当か、ひどく片手落ちであると言える。

では何がテーマを語るにふさわしいか?

展開へのリアクションである。

展開へのリアクションとは何か?

展開を受けての人物の行動とセリフである。

人物こそがテーマの核の搭載場所として適当なのだ。

展開、そして人物のリアクション。

一緒になって初めてエピソードは生まれる。

作品はエピソードの連なりでもって構成されている。

すべてのエピソードが同じくテーマを称揚するのではなく、エピソード同士を競合させ、対立させることによってかえって核のエピソードが埋没しつつ浮き上がるようにしなければならない。

テーマの取り扱いは高等技術ということだ。

強調、補佐、隠匿、連関。

自分もまだまだ扱い切れない技術。

また、テーマをこれでもかというほど吐きつけた作品が公開できるようになったらテーマについて取り上げよう。

【小説に関する言説】1.作家として

作家としての姿勢

 人はなぜ物語を欲し、作り、消費するのだろう。
「理解できない何事かに納得のいく説明づけを与えたい」
そういう本能があるからだろう。
彼が死んだのは神がその能力を欲し天上へ召したからだとか、
太陽が没しまた昇るのは死と再生の理を示しているだとか、
神話の類からしてそうだ。
世の理不尽。受け入れがたいこと。
世の神秘。思わずこうべを垂れてしまうこと。
そういう理解できないものを頭の中に入れてしまうための手続きこそが物語なのだ。
主観で世界を解釈するのだ。
作られた物語は作者の思う「世界の在り方」の形をとる。
「世界とはこういうモノなのだ、こう動いているのだ」
そういう個人の考えを端的に表すものが物語なのだ。
そこには必ず、人間として過去に受けた影響が作用する。
喜怒哀楽、心の表面に刻み込まれた傷や凹みが。
そしてそんなモノこそが物語を作る原動力なのだ。
創作活動とは自分が世の中から受けた影響を見つめ、
それへの反応をこの世に吐き出すことなのだ。
しかし気をつけなければならない。
本当にその衝動の向かう通りにパトスを吐きつけるような行為は厳に慎むべきことだというコトを忘れてはいけない。
主体としての、書き手としての自分は、創作活動の原動力としての自分と分離されていなければならない。
その間の関係は客観視するものとされるものでなければいけない。
誰も、世の中からの影響に傷つけられた生身の心など見たくはないのだから。
俺はこんだけ色々あったけど最終的に元気です。ひねくれてもいなければ悲嘆に暮れてもいません。
そう言えばこんなこともあったねえ、そんな調子で話しているのです。
……これが重要なことだ。
 

何を書きたいのか知る

自分は何を書きたいのか、これがわかっていないといけない。

わかっていない奴はこう言う。

「こんなものが書きたくて小説を書いてるんじゃない」と。

本当に?果たして本当に?

本当に死ぬほど嫌なら一文字たりとも書けてはいないはずではないのか?

ましてや自分から書き始めるなどあり得ない。

どういうことか。

その、書きたくないモノの中にも書きたい要素があったということだ。

つまりその人間が「自分の書きたくないモノ」ではなく「自分の書きたいモノ」を言葉にしていたなら、

決して「こんなものが書きたくて小説を書いてるんじゃない」とは言わなかっただろうということだ。

こう考えてみよう。

「ファンタジーが書きたくない」

そういう人間がいたとする。じゃあその人間は「どんなファンタジーでも」書きたくないと思うか?

バトルで引っ張っていく王道ファンタジーがある。

恋愛が主軸になったファンタジーがある。

ほのぼの日常モノのファンタジーがある。

ファンタジーなら本当に「なんであろうと」書きたくないと思うか?

違うはずだ。

そのジャンルの中でも好き嫌いが生じるはずなのだ。

だったら「ファンタジーが書きたくない」というその言葉は嘘になる。

例えば、「恋愛が書きたい」が本心だったとする。

だとするなら、ファンタジーだろうが、SFだろうが、推理だろうが、学園だろうが、現代だろうが、スポーツものだろうが恋愛が絡むモノは全て守備範囲になるはずなのだ。

自分の書きたいものを知るとはそういうことだ。

恋愛が書きたい。

でもファンタジーの中では嫌だ。

恋愛が書きたい。

でも現代ものじゃないと嫌だ。

書きたいモノこそが重要ではないのか?核ではないのか?

そこに何が付属しようが付属しなかろうがいいではないか。

「私は恋愛モノが書きたいから恋愛を描くことができるならジャンルはなんでもいい、純粋に恋愛しかない作品でも、他のモノが混ざる作品でも」

自分の書きたいものを完全に核としてとらえて、他の余分なものを削ぎ落として削ぎ落して自分という作家存在を作り上げた人間はこんなセリフが吐けるくらい強いのだ。

「こんなものが書きたくて小説を書いてるんじゃない」

じゃあ何が書きたいの?

沈黙。

そんなワナビにはなって欲しくない(プロでもいるらしいが)。

 

今日はこんなところで。

シリーズ的に続けます。

なお、ここで述べたすべての言説は自分の言葉由来ではなく、プロの書いたハウツー本やプロの発言をソースにして再解釈したものであることをここに明らかにしておきます。

 

うつ病について

f:id:Tangsten_animal:20170320170139j:plain

うつ病

自分が大鬱病エピソード(一般的に言われるうつ状態)に入った時には
よく調べたものだ。
それを還元したいと思う。
 

うつ病の分類

 
うつ(抑うつ気分)

失職や失恋、ストレスなど明確な理由が存在する
人間の自然な感情としての気分的落ち込み
数週間にわたって持続することは稀であり休養で自然に回復することがほとんど

うつ病(大うつ病エピソード)

激しく持続的な落ち込みを主な症状とし
ストレスをきっかけとすることも楽しい気分から一転して落ち込むこともある
つまり心理的な原因は必ずしも存在するわけではない
脳内分泌系の異常が原因であり
身体の不調も伴うことが多く最悪の場合には自殺を引き起こす
投薬治療と適切な休養さえあれば通常一年以内に治るが長期化するケースも
なお全人口の生涯有病率は三割であり再発率は五割と高い
遺伝により発病リスクが増大する

新型(擬態)うつ病
 
うつ病のような程度が激しく持続的な落ち込みと
一見似ているが原因や症状が異なるもの
統合失調症陰性症状や人前で
落ち込んで見せることによって気を引こうとする人格障害
単なる甘えなど様々な状態が総称してこう呼ばれる
うつ病の概念がメジャーになるにつれて
安易なうつ病の診断や誤診・素人の誤った判断などが増えたことが背景にある
甘えであれば治療は必要がないがそうでない場合は専門的な対応が必要
それらの原因とは別にこの病気を単体の病気と認める立場もある
これを単体の病気として認める場合の専門の診断基準が存在する
 
 
今一般的に「うつ病」にくくられてしまう、うつと言われるものは
こういう三つのモノに分類される。
本来、これらは決して混同してはならない。
こちらの動画を見てほしい。自作である。
 

www.nicovideo.jp

 

ここにあるようにうつ病であることの同定は非常な慎重さを要する。

「うつ」を日常語にしてはならない。

「うつうつとした気分」と「うつ病・重篤なうつ状態」は似て非なるものなのだ。

いや、落ち込みの程度においてまったく似ているものですらない。

 そして、うつ病でないものをうつ病にまとめてしまう「擬態うつ病問題」
これに関してはこの記事でまとめて取り扱うわけにもいかない重大さであるから、
また後日改めて言及したい。
ではリソースである林先生のサイトを載せて終わりたい。