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北條カズマレの庵

自分のネットでの活動の拠点です。自作の動画・自作の創作論などの解説を載せていきます。

【小説に関する言説】1.作家として

作家としての姿勢

 人はなぜ物語を欲し、作り、消費するのだろう。
「理解できない何事かに納得のいく説明づけを与えたい」
そういう本能があるからだろう。
彼が死んだのは神がその能力を欲し天上へ召したからだとか、
太陽が没しまた昇るのは死と再生の理を示しているだとか、
神話の類からしてそうだ。
世の理不尽。受け入れがたいこと。
世の神秘。思わずこうべを垂れてしまうこと。
そういう理解できないものを頭の中に入れてしまうための手続きこそが物語なのだ。
主観で世界を解釈するのだ。
作られた物語は作者の思う「世界の在り方」の形をとる。
「世界とはこういうモノなのだ、こう動いているのだ」
そういう個人の考えを端的に表すものが物語なのだ。
そこには必ず、人間として過去に受けた影響が作用する。
喜怒哀楽、心の表面に刻み込まれた傷や凹みが。
そしてそんなモノこそが物語を作る原動力なのだ。
創作活動とは自分が世の中から受けた影響を見つめ、
それへの反応をこの世に吐き出すことなのだ。
しかし気をつけなければならない。
本当にその衝動の向かう通りにパトスを吐きつけるような行為は厳に慎むべきことだというコトを忘れてはいけない。
主体としての、書き手としての自分は、創作活動の原動力としての自分と分離されていなければならない。
その間の関係は客観視するものとされるものでなければいけない。
誰も、世の中からの影響に傷つけられた生身の心など見たくはないのだから。
俺はこんだけ色々あったけど最終的に元気です。ひねくれてもいなければ悲嘆に暮れてもいません。
そう言えばこんなこともあったねえ、そんな調子で話しているのです。
……これが重要なことだ。
 

何を書きたいのか知る

自分は何を書きたいのか、これがわかっていないといけない。

わかっていない奴はこう言う。

「こんなものが書きたくて小説を書いてるんじゃない」と。

本当に?果たして本当に?

本当に死ぬほど嫌なら一文字たりとも書けてはいないはずではないのか?

ましてや自分から書き始めるなどあり得ない。

どういうことか。

その、書きたくないモノの中にも書きたい要素があったということだ。

つまりその人間が「自分の書きたくないモノ」ではなく「自分の書きたいモノ」を言葉にしていたなら、

決して「こんなものが書きたくて小説を書いてるんじゃない」とは言わなかっただろうということだ。

こう考えてみよう。

「ファンタジーが書きたくない」

そういう人間がいたとする。じゃあその人間は「どんなファンタジーでも」書きたくないと思うか?

バトルで引っ張っていく王道ファンタジーがある。

恋愛が主軸になったファンタジーがある。

ほのぼの日常モノのファンタジーがある。

ファンタジーなら本当に「なんであろうと」書きたくないと思うか?

違うはずだ。

そのジャンルの中でも好き嫌いが生じるはずなのだ。

だったら「ファンタジーが書きたくない」というその言葉は嘘になる。

例えば、「恋愛が書きたい」が本心だったとする。

だとするなら、ファンタジーだろうが、SFだろうが、推理だろうが、学園だろうが、現代だろうが、スポーツものだろうが恋愛が絡むモノは全て守備範囲になるはずなのだ。

自分の書きたいものを知るとはそういうことだ。

恋愛が書きたい。

でもファンタジーの中では嫌だ。

恋愛が書きたい。

でも現代ものじゃないと嫌だ。

書きたいモノこそが重要ではないのか?核ではないのか?

そこに何が付属しようが付属しなかろうがいいではないか。

「私は恋愛モノが書きたいから恋愛を描くことができるならジャンルはなんでもいい、純粋に恋愛しかない作品でも、他のモノが混ざる作品でも」

自分の書きたいものを完全に核としてとらえて、他の余分なものを削ぎ落として削ぎ落して自分という作家存在を作り上げた人間はこんなセリフが吐けるくらい強いのだ。

「こんなものが書きたくて小説を書いてるんじゃない」

じゃあ何が書きたいの?

沈黙。

そんなワナビにはなって欲しくない(プロでもいるらしいが)。

 

今日はこんなところで。

シリーズ的に続けます。

なお、ここで述べたすべての言説は自分の言葉由来ではなく、プロの書いたハウツー本やプロの発言をソースにして再解釈したものであることをここに明らかにしておきます。