北條カズマレの庵

自分のネットでの活動の拠点の一つです。自作の動画・自作の創作論などの解説を載せていきます。

#魔女集会で会いましょう が流行っている

Twitterで、果てはInstagramでまで、流行を見せているハッシュタグ

#魔女集会で会いましょう。

これに関して私見を述べたい。

 

まず、観測された共通点として、

・拾われる孤児、もしくは魔女は、少なくとも最初の時点において、誰からも愛されない存在でなければならない
・魔女は物質・基礎教育面において孤児を充足させねばならない。孤児は精神的面において魔女を充足させねばならない。たとえ別離が定めでも。
・寿命の差による死別が存在する場合、魔女は大いに悲しまねばならない
魔女裁判魔女狩りには魔女は敗北しなければならない。それを免れる唯一の道は拾った孤児ないし動物に守られることによってである。
・魔女および成長後の拾われた少年には無数のパターンがあるが、拾われる前の少年が取りうるパターンは少ない(身寄りがない、いけにえとして魔女にささげられた、身体的ハンディキャップがある、等)。魔女に拾われる以外、幸福を得る道があってはならない。
・魔女に何らかの目的がある場合、拾われた少年はそれに異を唱えてはならない。魔女が悪事をするなら少年はともにそれをしなければならない。
・拾われた少年は成長した後、表面上はまだしも根本的な部分で魔女から精神的自立をしてはならない。魔女のほうは「子離れ」をしてもしなくてもよい。

がある。

これらを基本的に抑えておけば創作するうえで見る者の共感から外れることはないだろう。

 

もう少し分析してみる。

よく見られる言説として、

「このハッシュタグでみられる創作物は女の欲望と理想を端的に体現している」

というものがある。

どういうことかと言えば、

・年を取らない魔女という設定

・自分好みの理想の男性を育てたいという欲望の充足。

・血がつながらない疑似親子であるがゆえに恋愛関係も許される。

・そもそも魔女という存在が究極の女性性の発露ではないか

であるがゆえにあの創作物は女性の単純な欲望充足が見られるというのである。

これにはどうも違和感がある。

前時代、ロリキャラブームの折、「男性オタクは自分より弱いものを好む」とする言説がやたら流行ったのと同じ安易さを感じる。

何か…もう少し探ってみる必要があるだろう。

最後に、まとめて置いたメモを書いておく。

何か拾ってくれるならうれしい。

 

基本構造
・既存社会と切り離された無背景の子役
・不老、メンター、でも魔女狩りには弱い
 という属性を持った母親役
 
エモーション・コア
女の理想
→不老の自分と理想の息子との結婚
(ロリキャラを好むオタクの精神分析並みに胡散臭いか?)
 
基本イベント
・不老の母親役と寿命を持つ息子役との別離
魔女狩りで守り守られる立場が逆転する
 
疑似母子相姦の成立が一つのハッピーエンドだが、そのあとの別離は既定路線
 
ありえそうだけど見たことのない路線
→魔女が不老の呪いを解き、人間と同じ時間を歩み始める
→これがなぜないのか
 
発起者、九頭氏の提示した設定
『魔女が拾った男の子が成長して、魔女よりでかくなって(ごつくてむさくてがっしりしてて)魔女を全力で愛して守る男になる話』→このタグで好き勝手していい
 
 
孤児の拾われる前の設定のパターン
・身寄りがない
・いけにえとして魔女に捧げられた
・ハンディキャップ(目が見えない、口がきけない)がある。
 
例によって、単純にこれを転倒したパターンも存在する。(魔女がいけにえにされる、魔女にハンディキャップがある)
 
魔女の孤児を拾う前のパターン
・完全無欠の魔女(でも魔女狩りには負ける)
・疎外感を感じている魔女(人間なんて…)
・自分一人では解決できない問題を抱えており、成長した孤児がそれを解決してくれるパターン
 
成長後の孤児
・魔女と一緒に悪いことをする
魔女狩りから魔女を守る盾になる
孤児が立派に成長する
物質的充足の表象