北條カズマレの庵

自分のネットでの活動の拠点の一つです。自作の動画・自作の創作論などの解説を載せていきます。

レジュメ H.30.5.16

物語(ナラティブ)
  と
物語(ストーリー)
  は
  違う

ナラティブは体験
ストーリーは情報

物語は何を語るか、何を語らないか、ではなく、何を強調するかである。

物語には現実は存在しない。読者の前提知識に全面的に依拠して想像を惹起するだけである。
エーコ「物語はすべてを語り尽くすことはできない。強調すべきことを強調するだけだ。空白を埋めるためには、読者の協力を要する……あらゆるテクストは、読者に自分の仕事の肩代わりを求める怠惰な機械なのだ」

語り=モデル作者が存在しない
   つまりかりそめにも意図が存在   しない
強調=モデル作者が存在する
   つまりかりそめにも意図が存在   する
 
モデル読者が「もっともその作者が意図した読み方に近似した読み方をすることに成功した」と目された時

メタモデル読者
報告価値、という概念

「語り」が報告する個々の出来事は報告価値という基準をクリアしていない

「強調」に基づく物語はある一つの調和を目指して個々の出来事が報告価値と言う基準に沿って整理選択され配列させられている。

ナラティブの定義(リースマンによる)
・特徴的な〈構造〉を持つ。
・〈時間の流れ〉と〈起こった出来事の報告〉を含む。
・語り手が聞き手に対して、出来事を〈再現〉してみせる(実際にあったのだと〈説得〉する)。
・聴衆の〈感情〉に働きかける。
・研究インタビューや治療的会話の中での〈長い語り〉である。
・〈ライフストーリー〉である。

非ナラティブ的ストーリーを夢想してみる。
=箇条書きのプロット
 ↓
 存在不能

ストーリーを内包しないナラティブ

「物語全体に結論を持つ因果関係の連なり」はストーリーか?ナラティブか?それともこの問いはナンセンスか?

千野帽子
「情報と体験は違う。ストーリーは、それだけでは情報ですが、ストーリーを表現・提示したナラティブは、それを読む人訊く人に体験をさせるということになります。」

人は物語る動物であり、語られる物語はすべて仮説である。

ウンベルト・エーコ
「テクストは読むものであり、利用するものではない。小説の森は万人のためのものであり、誰か一人が勝手に歩き回っていいものではない」

「テクストとは、読者に仕事の一部を任せたがる怠惰な機械なのです。読者がテクストについて疑問を抱いても、それを作者に尋ねるのは無意味なのです。ただし、読者は、作品が推奨する理想的な読み方(モデル作者の意図)について常に既に確認したモデル読者であることを心掛けなければなりません。」

「作者は、瓶に封じた手紙を海に投げ入れるように、テクストを世界に送り出す時、つまり、単一の宛先ではなく読者の共同体へとむけてテクストが生み出されるとき、作者は、自分の物語がモデル読者によってモデル作者意図通りに解釈されるのではなく、複雑な相互作用のストラテジーによって解釈されるのだと知っています」

「テクストは読むものであり、『使う』ものではありません。妄想の起爆剤としてテクストを使うという行為はだれもがやっていることですが、それは人前にさらけ出されるべきではありません。テクストを読む際には、ゲームのルールがいくつかあり、モデル読者とはそうしたルールに沿って遊ぶ方法を知っている人のことです。知ったうえで『道を外れる』のと、知らずに勝手気ままに歩くことは、まったく別の行為です。」

モデル読者とモデル作者
テクストに書かれている、「理想化された作者の意図=モデル作者意図」を正確に読み取ろうとすることで読者はモデル読者になる。

 

「語り」もまた強調の一側面を持つ。ある規範・制度の内部にとどまる限り、その規範・制度を強化糊塗する方向性の「強調」を発揮するからである。
どうしてそこから逃れるのにいちいち「天才的発想力」なんてものが必要になってくるか。

小説の分析
・報告価値に基づく情報の提供
・文体
・ナラティブ

・報告価値のある情報
非日常的インシデント

それは何か?=我々の世界との差異
      =その世界でも特異とさ       れる出来事
・文体
合う合わない
それ自体の芸術・娯楽性

・ナラティブ
それらを総合した追体験提供

・物語の濃淡
ストーリー

より情報羅列的
↑↓
より追体験

ナラティブ

  
慣れた階段を踏み外す
なぜ?
なぜ
と問うときには
すでに日常の階段を踏み外している

――高橋喜久晴

ムーミン谷になぜはない
日常の恒常性の既存がなぜ、を生む
なぜ、とは理由の希求であり、物語への渇望である。この世の理不尽の前に膝を屈してこそ、なぜ、は生まれる。
それは実存的な問いである。

笑い=日常の盤石性の再確認

・物語の駒としての登場人物
物語優位性→キャラクターの一貫性を放棄し、物語を進める推進剤としての役割しか持たせない。

モデル化されたキャラクターと作中キャラクターの齟齬が不快、キャラクターのモデル化がそもそも不可能である等の読者側の問題が出てくる

キャラクター優位性→読者が心中でモデル化したキャラクターの行動と作中キャラクターの一致、または選択肢の可能性の幅の中に納まっている物語(幅に収まるとは必ずしも読者の想像どおりにふるまうとは限らない。読者が考え付かず、なおかつ読者の心中でモデル化されたキャラクターから想像される選択肢の閾値内の選択肢を作中キャラクターが取ることを読者は受容し、しばしばそれはより価値ある刺激となる)

しかし、上記の一般論でもキャラとストーリーはどちらが優位か、という問いは解消されない

モデル化されたキャラクターのイメージを毀損しない範囲内でならキャラクターの側がストーリーからの要請にこたえてもいい。

 

〇つまりは、ストーリーが受容されるかどうかは、キャラクターが受容されるかどうかに換言されるのか。読者の心中でモデル化されたキャラクターへの共感こそが物語の本質なのか。だとするならストーリーとは何か。キャラクターの副産物なのか。

キャラクター∋ストーリー

少なくともストーリーはキャラクターの人生のタイムラインの一部である。

ストーリー=情報
ナラティブ=体験

ストーリー=シーンの羅列
ナラティブ=シーンの能動的連なり

シーンのあいだあいだに意味を持たせるのがキャラクター

(例
朝起きた、歯を磨いた、散歩に出かけた、犬を見た、家に帰ってきた、食事をした……

語り(小学生の作文かカウンセリングルームにしばしばある)
その次の段階がストーリーでありそのまた次の段階がナラティブである。


ゴールは道筋によってあらしめられる
道筋は旅人によってあらしめられる

体験性こそが最も重要な要素

キャラクターは遊園地の乗り物
ストーリーは風景
シーンはイベント
読者は客
ナラティブは乗り物、風景、イベントを通して得る体験

読者はキャラクターに乗ることで物語を追体験する。

乗る、とは、理解のことである。
理解とは、キャラのモデル化に読者が成功することである。(理解した結果、シーンとシーンの繋がりに物語性が発生し、意味の通るナラティブが創発される。)

キャラクターは常にストーリーが提供するシーンに対してリアクションをとり続ける。それを常時読者は摂取し、モデルをより精緻なものへと近づけていく。

作者もまた常にキャラクターのモデルをいじり続けているが、ここはやはり読者の心中のモデルと選択が一致するか、「予想は裏切り期待は裏切らない」ものでなければならない。

ではストーリーとは何なのか?

キャラクターのモデルの精緻化のためのプロセスである。
作者の中にコンプレックスにくみ上げられたモデルが、予測されないがしかし不自然でない選択肢を提示することで感動が生まれる。その一手以外は読者の中のモデルと作者の中のそれは、完全に一致していなければならない。

かなりキャラクター原理主義よりの話に帰着してしまった……。

ではストーリー寄りに話を進めると?

ストーリーが企図するメッセージ、感情励起、テーマ性の構築のためのコマがキャラクターである

実際はキャラクター主義とストーリー主義は交錯混交しながらナラティブを紡いでいく。

キャラクターが従属するのはストーリーではなくシチュエーション(シーンの前提条件)?

シチュエーション→世界観

ストーリーはどう生まれるのか
キャラクターはどう生まれるのか
ナラティブの終局においてそれらはどうなるのか

ストーリーはシーンの時系列順の羅列(回想を除く)、相互に筋の通った因果関係の一本の筋
キャラクター不在のストーリーは段取りである。
(例
恋人が死んだ。悲しみのあまり自殺した。

誰にでも納得のいく段取り的因果関係。理想化されたキャラクターが取りうる規範意識、時代従属的行動様式から一歩も出ない、というストーリー。そうではないイレギュラーな行動規範を内在化したキャラクターが不在だと、ストーリーはこうなるしかない。

恋人が死んだ。悲しみのあまりアイスホッケーを始めた。

キャラクター不在である限り意味不。しかしここにダイナミズムがある。キャラクターが十分にモデル化され、それに共感する限り、読者はここに違和感ではなくダイナミズムを感じる。

これを十全に開陳する、読むことでキャラクターのモデル化ができていくものがナラティブである。なぜそんなことをするのか?キャラクターのモデル化に成功した結果、シーンとシーンの繋がりに物語性が発生し、意味の通るナラティブが創発される。ナラティブはナラティブを創発するためにキャラクターの情報をモデル化可能な形で提供するメディアを構成要素として持つ。

〇私の物語づくりを分析しよう

まずシーンが思い浮かぶ(感動の再現、引き写し、それらの単純には元ネタに辿れない改変パターン)

そのシーンを演じるに足るキャラクターの想定。まだこの時点ではキャラクターは作者に内在していない。

ストーリーの構築。まず終わりと始まりのシーンを想起し、最初に浮かんだシーンの挿入し、つじつまの合う間のシーンを考える。この時点で段取り性が出ないように注意する必要がある。

最後に、そのストーリーをナラティブに昇華させることのできるキャラクターを考える。もちろん、考えることによってストーリーは改変されていく。ストーリーの改編とキャラの構築は互いにフィードバックし合う。