北條カズマレの庵

自分のネットでの活動の拠点の一つです。自作の動画・自作の創作論などの解説を載せていきます。

H.30.07.07 レジュメ

〇=NASUさんの発言
 
弱者も強者も地獄のようなゲームのプレイヤーだ。強者が力を持つように、弱者も力を持っている。それは力とすら呼べないおぞましいもので……毒。毒としか呼べない。悪と読み替えてもいい。悪は弱者の持ち物だ。強者が持っていていいものではない。強者が悪を持っているとすれば、それは弱者から盗んできたものだ。だから、強者は善でなければならないし、弱者は悪でなければならないのだ。少なくとも、弱者の悪徳は許されなければならない。
 
堕落の肯定→それまでの短編では致し方ないものとして描かれてきたこれが鈴木先生においては許されなくなる。
 
鈴木先生においては、強者と弱者という問題設定はやはり存在する。
むしろ強者も弱者も平等に背負うべき責務を強者が強者であるから弱者が責務を免れ強者に背負わせる理不尽。
弱者が弱者であるのは「普通のこと」。つまり、堕落は自然であり、罪でなく、致し方ないこととして絶望される。しかしそこを何とか普通以上の努力を示していただくことで、世界はよりよくなる、という思想。
 
「普通のこと」とは、世間一般に珍しくもない欠落。より恵まれた人間が配慮と肩代わりをすることが当然の責務とされる、弱者を弱者たらしめる「事情」。
 
〇そも、強者こそ弱者に責務をアウトソーシングしているのでは?
〇悪徳の追認=堕落の許可は弱者と悪徳の本質的同一化を再生産する、偽の寛容性。
 
あなたは明確な欠落の存在しない「強者」なのだから、配慮されるべき「弱者」の責務を肩代わりしなさい。
…という文脈において、「」内は逆では?
 
他人に責務をアウトソーシングできることが「強者」の条件なら、完全で十分な配慮がなされた「弱者」はむしろ強者なのでは?
……逆差別批判の安易さに陥ってきた
 
そもそもあらゆる欠落を完全に埋め合わせることができる「十分な支援」など現時点では存在しない。欠落を充填することで全員が平等になれるという理想が存在し、弱者が負い目により弱者性を強化したり、逆に疑似的な強者に転じたりという現実が存在する。
 
身体的障害の有無、尊厳を踏みにじられた経験の有無、金銭の有無、ほとんどが不可逆な、補填不可能な欠落、が、強者と弱者を分ける。
 
〇弱者の存在が不当なのではなく、強者の存在が不当なのである。完全無欠の欠落のないアイディアルな存在が前提なのではなく、各人が各人、欠落を有しているのがデフォルトであり、強者とはその欠落を不当に充填された、あるいは無化された存在なのである。
 
武富作品における、特に、『掃除当番』における弱者と強者とは?
→主人公は「強者」である。この世界観における判断基準からは、一見して配慮に足るだけの欠落を見出すことができないからである。
彼女はむしろ、欠落を抱えているのに不当にそれを無化された「強者」なのである。
自分の身に降りかかった理不尽を受け入れることしかできないという欠落。
→掃除当番をぶっちする、責務をアウトソーシングできる者たち、は、自らの欠落をことさらに強調することで配慮を独占することのできる特権的地位を獲得する不断の努力を欠かさず、現在の「配慮を受ける弱者」という地位を獲得している。
 
…ここに強者は存在しない。
 
主人公は「恵まれているから、幸福だから、『強者』をやめられない。自分の事情は配慮を受けるには不十分であると感じている。『事情』という特権の不足を感じている」
自分は強者であるのだから配慮する側、弱者を支援する側でなくてはならないという認識。
 
支援、とは、「弱者」が放棄・逃亡した掃除当番という責務を、残されたものが拒否することなしに引き受けること。
 
この場合の支援、とは、弱者の弱者性を直接的に解消することではなく、弱者にも強者にも平等に降りかかる責務を弱者特有の「配慮されるべき事情」を理由に強者へとアウトソーシングすること。
 
責務、の内部において、もっともパフォーマンスを発揮するのは主人公であり、そもそも弱者のうちには責務をこなす能力を十全に持たないものがいる。
 
責務、は、結果的に、「強者」に優先的に与えられる。
 
主人公はもっとも称賛を受け、その尊厳を強化されるべき立場にいるが、配慮されるべき事情を持つ弱者たちの尊厳を傷つけないためにそうされる機会を奪われている。