北條カズマレの庵

自分のネットでの活動の拠点の一つです。自作の動画・自作の創作論などの解説を載せていきます。

異化効果とは何か

異化効果とは何か
日常からいかに乖離できるか
の文学的跳躍としようか
「いかに批判的に日常を見れるか」
の契機となるべき文学的表現
 
最も安易な異化的見方
→演劇を、舞台役者の演技を批評しながら見る
 
文学的作品とは批評によって完成される
表現形式である
決してそれに対するメタな言説なしには
成立しえない。
 
異化効果を含む作品は批評性を
メタな批評以前に既に内包している?
 
喧騒と、やみくもな怒りの中にある我が若き教え子たちよ
 
『肝っ玉おっかあとその子供たち』
友人など作るべきではない。裏切られる可能性も生じるのだから。
 
ガルシアマルケス
 
週末に禿鷹どもが大統領府のバルコニーに押しかけて、窓という窓の金網をくちばしで食いやぶり、内部に淀んでいた空気を翼でひっ搔き回したおかげで、全市民は月曜日の朝、図体の大きな死びとと朽ち果てた栄耀の腐臭を運ぶ、生暖かい、穏やかな風によって、何百年にもわたる惰眠から目覚めた
 
 
見れば、けっこう、人通りもあるのだが、あまりにも焦点のはるかなこの風景の中では、
人間のほうがかえって、架空の映像のようだ。
もっとも、住み馴れてしまえば、立場は逆転してしまうのだろう。
風景は、ますますはるかに、ほとんど存在しないほど透明になり、
ネガから焼きつけられた画像のように、自分の姿だけが浮かび上る。
自分で自分の見分けがつけば、それで沢山なのだ。
そっくり同じ人生の整理棚が、何百世帯並んでいようと、
いずれ自分の家族たちの肖像画をとりまく、ガラスの額縁にすぎないのだから……
 
ブレヒト=異化効果だと習ったのだが、この「異化効果」をWikipediaでひくと日本語にしか項目がない。英語版のWikipediaには、Non-Aristotelian Drama(非アリストテレス劇)だと書いてある。文学作品が持っているカタルシス効果を否定した演劇を非アリストテレス劇というのだそうだ。
 
Defamiliarization
 
表現としての異化効果
→日常的観念からの跳躍
話の筋としての異化効果
→登場人物への共感の拒否
 
バリー・リンドン」の異化性
時はイギリス貴族の最後の春…主人公エドモンドバリーはくだらない色恋沙汰で良家を追い出され、軍隊で荒くれとしての生活を重ねる。特異の虚言で身分を詐称し手もぐりこんだプロイセンの将校の下で正体がばれるも、イギリス人貴族の博徒バリバリの手によってイギリスへと逃れ、ばくちによって英国貴族社会でのし上がろうとする。彼はリンドン家に目をつけ、リンドン家当主の死に乗じて後家となった夫人と結婚し、まんまと貴族の世界に入る。子宝に恵まれ、順調に出世を続けるバリーであったが、善リンドン家当主の息子の画策によって社会的地位を失ってしまう。実の息子しか遺されていないバリーの身の上に、落馬事故による息子の死という悲劇が襲い掛かる。死の床にある息子に語って聞かせるのは、軍隊時代の、実態とはかけ離れた武勇伝。バリーの涙は息子の死ゆえか、息子の死に際しても嘘しか言えない自らのその情けなさゆえか。廃人同然となって酒におぼれるバリーに、前当主の息子がペストるによる決闘を仕掛ける。決闘の日、先に撃つことになったのは義理の息子のほうであった。しかし彼はうっかり暴発させて、バリーから狙いを外してしまう。それを見たバリーは、情けをかけたのか、自分が撃つ番に明後日の方向に向けて弾を放つ。次の義理の息子の撃つ段になって、凶弾はバリーの足を砕いた。足の切断手術後、バリーは生家に戻ることとなる。リンドン夫人はバリーの生家への仕送りの手続きの書類に、もう戻らないバリーの姿を見るのであった。
 
だすえんで
 
バリー・リンドンでは批判的見方までは要求されていないか。違うか。
 
『肝っ玉おっ母とその子供たち』
この戯曲を読んで考えたのは、戦争によって翻弄される人の愚かさ、戦争の惨めさといったものではなかった。独りで考える人がたどるであろう、堂々巡りの荒れ地についてだ。途中に「気付きの種」があったとしても、人は自分が置かれている世界からは容易に抜け出すことはできないのではないかと思うのだ。
 
「肝っ玉おっ母とその子どもたち」では、娘の太鼓が気づきにあたる。魂の叫びのようなものはあるが、明確には言語化されない。そして、それでもまだ歩き続けるべきなのか、立ち止まって言葉を発するべきなのかという問いに簡単に答えはない。
 
気づきと目覚め
 
カタルシスの必須性
 ↓
これを我々は理論家できていないのでは?との指摘
であるがゆえにアンチカタルシスがぴんと来ない。
 
我々は娯楽作品がカタルシスを持っていることは知っている
文学作品がカタルシスを持たないと思っている。
だから、「これは文学だ」というラベル付けがあると十分に異化的な読み方を要求されていると感じることができる。
 
文学を書くんだ、と言う動機づけが何割か含む「カタルシスからの逃げ」
逃げるまでもない。どうせカタルシスなんて意識して書かなければ得られない。主要な概念であることがみんなわかってないんだから。
普通に書くだけで非カタルシス的な作品へと異化される。素人の作品がそうであるように。素人がバッドエンドばかり書くという話があるように。
 
〇異化効果的表現
日常的事物の非日常化
まったく異なる見方の提供
 
〇異化効果的筋
共感できないキャラクターへの
批判的な態度を要求される筋
しかし必ずしも共感不能なわけではない
というか完全に共感不能じゃまずい
 肝っ玉おっ母には涙するだろ
 
キャラクターの情動の重大な揺らぎに
共感したいという欲求を充足する
 
真に異化的な話は既にカタルシスを持っている。
 
異化的でありながらカタルシス的でもある話。
 
キャラクターの行動が一般的観念からすると大きく外れていて作品的にはあたかも共感不能である体をしつつなおかつそうであってもキャラクターの情動に共感可能な作品。行動に共感不能、情動に共感可能、みたいな?
日常の異化が遍く妥当する本質へと回帰する…
とはこういう意味だ
異化による
 
 
@Tangsten_animal じゃあ異化の対義語ってなんだろう。というのはいままでうまく結論を出せていない
うん。そこでさっきのノーパンの対義語の話になるわけなんだが、たしかにその状態は存在するのに輪郭としてほぼ意識されていないまま、しかし逆に意識のほうを動かしていくもの(名付けられてるかどうかは意外に重要ではない)があって、そいつの輪郭を暴くことが異化なんだと捉えている
だからその輪郭を消音することが異化の対義になる(でも名称は思いつかない)と今は思っている。そして別に創作に拘る必要はな